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美術館訪問記-89 オードロップゴー美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:美術館新館

添付2:新館内のカフェ

添付3:旧館、左側に新館が繋がっている

添付4:ゴーギャン作
「少女の肖像」

添付5:ゴーギャン作
「ブドウの収穫」

添付6:ルドン作
「静物」

添付7:マティス作
「花と果物」

添付8:マネ作
「水差しを持つ女性、マネ夫人の肖像」 

添付9:ドラクロア作
「ジョルド・サンド」

添付10:ドラクロア作
「ショパン」
ルーヴル美術館蔵

デンマーク、コペンハーゲンの少し北にあるシャーロテンルンにもゴーギャンの作品をまとめて観られる所があります。
その名は「オードロップゴー美術館」

保険会社社長だったウィルヘレム・ハンセンのコレクションが未亡人により 二人の住居もろとも1951年に国に遺贈されたもので、同年開館。

本館は1918年築と古く、企画展示のためのギャラリー、ミュージアムカフェ、 マルチスペースの必要性から、新館が増築されました。

国際コンペティションの結果選ばれたイラク出身のイギリス人女性建築家 ザハ・ハディッドの設計で2005年8月に新館が開館。

かつては脱構築主義者で、奇抜過ぎて、設計するだけで建設されず、 アンビルドの女王といわれた彼女だそうですが、この建物はデンマーク国内外で 話題を呼び、今やオードロップ・ミュージアムの顔となっています。

建築マニアでなくともその姿を一目見ようと訪問客が後を絶たず、 ビルバオのグッゲンハイム・ミュージアム的な存在となっているとか。

ザハ・ハディッドは昨年日本の新国立競技場の設計コンペでも 日本のSANAA(妹島和世、西沢立衛のグループ)との最終決戦で勝ち、 最優秀賞を獲得。2019年完成予定の同競技場の設計を担当する事になりました。

ところで10年前に来た時は昔の住居の玄関から入ったのですが、 今はその新しい建物が入口に変わっています。 新館の企画展は現代美術で、興味が持てるようなものではなく、素通りし、 旧館にある常設展に向かいます。

まずゴーギャンが7点並んでいます。昔はここが一番奥だったのですが、 新館との接点の為、現在は旧舘としてはここが入口なっています。

ゴーギャンで特に強烈なのは「少女の肖像」。ゴーギャンが描いた生涯唯一の 営利的肖像画であり、僅か9歳の少女の固い表情とピンクと青色の背景。 茶系統の衣装と灰色の手と顔。一度見たら忘れられない絵です。

「ブドウの収穫」の憤って坐る少女の姿と彼女の怒りを象徴するような赤い葡萄畑。 少女の顔は昨年のロンドン・オリンピックで日本人第一号の金メダルを獲得した 柔道の松本選手の試合に集中する表情を想い起させます。 この少女は何に対して戦おうとしているのでしょうか。

同じ部屋にルドンの「静物」がありました。 ルドンとしては大型のキャンバスに(50 x 73cm)に、珍しく全てをキッチリと 何もぼかさずに描いた静物画。白いテーブルクロスが掛かった台の上に 一つの青い皿があり、その上に青い水差しと橙色と黄色のピーマンらしきものが 乗っています。橙色のピーマンが一つ台の上に転がっています。

少し離れて白い卵が一つ。背景は殆どが茶色の板壁で、上部1/5が白壁になって います。それだけのシンプルな構成ですが、2つのピーマンの橙色と板壁の明るい 茶色とが呼応しあって穏やかで暖かい雰囲気を醸し出しています。 水差しの青がピリリと全体を引き締めています。味のある良い絵です。

オディロン・ルドンはボルドーの生まれで、父はアメリカに渡って成功し、 フランス人のオディールと結婚後ボルドーに戻った1840年に次男ルドンが誕生。 本名はベルトラン・ジャン・ルドンなのですが、母の名からオディロンと呼ばれ、 本人もオディロンと署名しています。

幼少時に伯父に託され、両親から離れてボルドー近郊のペイルルバードにある ルドン家が所有していた邸宅で自然に囲まれて11歳までを過ごします。

11歳でボルドーに戻ったルドンは学校に通う傍ら、地元の画家 スタニスラス・ゴランに絵画の手ほどきを受けます。 ゴランはルドンにボルドー美術館あるドラクロアの模写を奨励します。

ルドンは17歳時に父親を喜ばせようと建築学を勉強しますが入試に落ち、 ボルドーで12歳年上の植物学者アルマン・クラヴォーと親しくなり、 博学で読書家の彼から多大な影響を受けます。

23歳で銅版画家のロドルフ・ブレスダンの指導を受け、24歳でパリに出て ジェロームの門を叩きますが、数カ月で止め、ボルドーに戻ります。

30歳で普仏戦争に従軍しますが、除隊後はパリに定住し、 39歳で初の石版画集「夢の中で」を刊行し、翌年結婚。

49歳で次男が生まれると、長男を半年足らずで亡くしていたルドンは 生まれ変わったようにそれまでの石版画と木炭画の「黒の時代」から 油彩とパステルの「色彩の時代」に突入し、世間的な評価も高まって行きました。

ルドンはクロード・モネと同じ年に生まれていますが、 吹き荒れていた印象派や前衛芸術とは一線を画し、独自の象徴的な美の世界を 築き上げ、晩年は代表作「眼を閉じて」が国家買い上げになり、 ナビ派の画家達からは「われらのマラルメ」と呼ばれ、 フランスを代表する象徴派の詩人マラルメに伍する敬意を払わられるなど、 満ち足りた最終章を迎えて、モネよりも10年早く1916年病没しています。

さてルドンの絵の隣の壁にマティスの「花と果物」が掛かっています。 ルドンは横、こちらは縦にキャンバスを使っています。 白いテーブルクロス。背景の壁は象牙色。花瓶は白の陶磁のよう。

首と本体の一部に青黒い釉がかかっています。果物を盛った器も白。 花瓶にはパンジーらしい赤い花と白菊、シダ類の緑の葉。 壁にもテーブルにも緑色が所々巧妙に塗られて全体のバランスを取っています。 マティスの信条とする、観る者を楽しくする絵の真骨頂。 実に楽しく気持ちの良くなる絵です。

この部屋だけでも今となっては万金の値があるでしょう。

その隣は広い、昔パーティーにでも使っていたような部屋。 ここにピサロ、セザンヌ、シスレー、モネ、ルノワール等の印象派の絵があります。 中にマネの「水差しを持つ女性、マネ夫人の肖像」がありました。

マネの今に残る最も早期の油絵の一つで、女性が左手で水差しから 右手で支えるボウルに水を注ぐ、ルネサンス期のような非常に珍しい構図の絵です。 右手に窓から見える風景を配したのもルネサンス的ですね。

その先の小部屋にコローが9点とドラクロア4点。 ショパンと共に一幅に納まっていたジョルジュ・サンドの肖像画が 切り離されて壁の上方に掛かっています。

もともとはショパンがピアノを弾き、その傍で、サンドが聴きいっているという 構図でした。絵は未完成のままドラクロワが亡くなるまで彼のアトリエにあった のですが、ドラクロワの死後、何者かの手によって、分断されてしまいました。

ドラクロワは、ジョルジュ・サンドを通してショパンと知り合いました。 3人は、共に語り合い、友情を深めていきました。 ドラクロワとショパンは、とても気が合い、互いに尊敬しあっていました。

「彼は、まれに見る高貴な人間で、私が会った最も純粋な芸術家だ。」と ドラクロワはショパンについて書き残しています。 その友情は、ショパンが亡くなるまで続き、晩年、寝込んでいたショパンを ドラクロワは何度も見舞っています。

肖像画が描かれたのは、ショパンとサンドがまだ仲睦まじい頃。 片割れの「ショパン像」はルーヴル美術館にあります。

美術館訪問記 No.90 はこちら

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