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美術館訪問記-88 ニュー・カールスバーグ・グリプトテーク美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

添付1:美術館外観

添付2:美術館中庭

添付3:彫刻の並ぶ大広間

添付4:ゴーギャン作「花を持つタヒチの女性」

添付5:ゴーギャン作
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
アメリカ、ボストン美術館蔵 

添付6:コロー
「想いに耽る」

添付7:ブグロー作
「ブドウを持った乙女」

添付8:マネ作
「マキシミリアン皇帝の処刑」

添付9:マネ作
「マキシミリアン皇帝の処刑」
ドイツ、マンハイム美術館蔵

添付10:ボナール作
「食卓-C」

デンマークの首都コペンハーゲンの中央駅近く、チボリ公園に面して 「ニュー・カールスバーグ・グリプトテーク美術館」があります。

カールスバーグ・ビールの創設者の息子で同社の社長だったカール・ヤコプセンが 1888年に市に寄贈した膨大なコレクションとその後の寄贈品を展示しています。

ニュー・カールスバーグというのは父の経営方針と対立したカールが別会社として 創設したもので、父親の死後1906年に両社は合併してカールスバーグ社になって いますが、美術館は寄贈時の会社名のままになっているのです。

ここの建物は教会によくあるようなドームを持ち、外観はネオ・クラシック。 ドームのある中庭は、ガラスがすっぽりと覆い、温室となっていて、 棕櫚の大木が植わっています。

美術館の大部分はグリプトテーク(彫刻陳列館)という名前のごとく、 彫刻の展示に使われており、部屋数でいうと、85部屋中11部屋が フランス絵画に割かれているのみです。 他に3階の12部屋がデンマーク絵画・彫刻展示室ということで、 デンマーク黄金時代の絵画も多く展示されています。

しかしこのフランス絵画のコレクションが凄い。 ゴーギャンの油彩画が何と30点もあります。それ以外が11点。 彼の手になる色々な飾りのついた陶器の水差し6点が珍しい。

これだけゴーギャンのある美術館は他に知りません。 おそらくゴーギャンの遺族の所持品だった物が地元で売られたのかもしれません。

ポール・ゴーギャン(1848-1903)はパリの生まれですが、その年の二月革命を逃れて 南米ペルーのリマに移り住みます。7歳の時に帰国し、17歳で航海士となり南米や インドを巡っています。幼少時とこの経験が後に彼をタヒチに誘うのでしょう。

23歳でパリに戻り、証券会社の社員となった彼はデンマーク出身の女性と結婚し、 5人の子供に恵まれるのですが、日曜画家となり、ピサロの教えを受けたり、 彼を通してセザンヌや他の印象派の画家達と知己になったりして、 第4回から第8回までの印象派展に出品もしています。

1883年、妻にも相談せずに退職し、画家を志すのですが、絵は売れず、 妻の故郷のコペンハーゲンに家族で移り、防水布のセールスマンになるものの、 デンマーク語の話せぬ彼がうまくいく訳はなく、妻がフランス語を教えたり、 翻訳をしたりして、細々と家計を支える事になります。

家族と別れてフランスに戻り、生活費の安いブルターニュ地方のポン=タヴェンで 暮らす事が多く、同地に集まった画家のシャルル・ラヴァル、ポール・セリュジエ、 エミール・ベルナール等と共にポン=タヴェン派と呼ばれました。

その後1888年にはアルルでゴッホと暮らしたりしますが、有名な耳切り事件で 9週間で別れ、1891年、新天地を求めてタヒチへ渡ります。

ゴーギャンの望みとは異なり、タヒチは既に楽園ではなく、 貧困と病気に苦しんだ後1893年パリに戻るのですが、描き溜めた絵は売れません。

1895年再びタヒチに渡り、ここで自分の母と同じ名前を付けた愛娘のアリーヌの 死を知り、絶望の余り遺言代わりの大作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、 我々はどこへ行くのか」を描いた後、自殺を試みて果たせず、 貧困と病に苦しみながら、フランスへ戻ることなく病死します。

ゴーギャンの次にはコローが13点、ドラクロアが8点と続きます。 白いドレスの婦人が思いに沈んでいるのを淡彩で情緒深く描き出しているコローの 絵を見詰めていると、若い女性監視員がつかつかと寄ってきて「撮影禁止ですよ。」

確かにその絵を撮りたかったのは事実ですが、千里眼でもなかろうに、 カメラに触ってもいないのに余りの言い方。「勿論。」と返すと、 「あら、御存じでしたのね。」とニッコリ笑いました。

カメラに触ってもいないのに突然、撮影禁止と言われたのは 長いこと美術館を巡っていて初めて。 彼女は余程私に話しかけたかったのか。

同じ部屋にブグローの「ブドウを持った乙女」あり。彼の絵に典型的な瞳の大きな 少女が、赤い髪飾りをして強い視線でこちらを向いています。淡い葡萄の葉の 繁る背景にクッキリと写実的に鋭角的に描かれた乙女の描写が実に良い。

その反対側にマネの「マキシミリアン皇帝の処刑」がありました。ドイツの マンハイム美術館やロンドンのナショナル・ギャラリーにあるものの縮小版です。

件の女性監視員に、「あの絵は他にもあるが何か関係を御存じですか。」と聞くと、 「あれはそれらの絵のスケッチです。 下絵ですが、描き込む所は描き込んでありますよ。」と嬉しそうに言いました。

確かに射撃する兵士達は精密に描かれていますが、処刑される方は ラフに輪郭があるだけ。上部背景も黒一色を置いているだけでした。

他にもギヨマン7点、モネ6点、ミレー、クールベ、セザンヌ、ゴッホが5点ずつ、 ピサロ、マネ、シスレー、ルノワール、ヴュイヤールが4点ずつと続きます。 ドガは絵画6点、彫刻70点と流石に彫刻主体の美術館です。

ボナールの珍しい彫刻4点もありました。彼の油彩画5点はどれも彼らしい 暖か味に溢れた心豊かになるようなよい作品ばかりでした。

ここの4階は屋上展望台になっています。さほど高くはないので、 市内が見渡せると言うほどではありませんが、隣のチボリ公園の ジェットコースターの軌道や市庁舎の塔、美術館の円蓋も直ぐ近くに見えました。

美術館訪問記 No.89 はこちら

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