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美術館訪問記-85 グッゲンハイム美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

添付1:グッゲンハイム美術館

添付2:グッゲンハイム美術館内部

添付3:カミーユ・ピサロ作
「ポントワースの隠れ家」

添付4:セザンヌ作
「静物:フラスコ、グラスと水差し」

添付5:ピエール・ボナール作
「庭に面した大食堂」

添付6:フランティセック・クプカ作
「色彩による平面構成、裸婦」

添付7:マーク・ロスコ作
「無題」

前々回のグッゲンハイム美術館というと、アメリカ、ニューヨークにある グッゲンハイム美術館を思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。

実は私が訪れたグッゲンハイムと名の付く美術館は世界中に5つあります。 ソロモン・ロバート・グッゲンハイム財団は世界分館構想を持っており、 今後も拡大路線を維持していくようです。

ニューヨークの「グッゲンハイム美術館」は「鉱山王」と呼ばれた大富豪、 マイアー・グッゲンハイムの息子のソロモン・ロバート・グッゲンハイムが 58歳で家業引退した1919年から美術収集を初め、 現代美術を支援すべく1939年に設立。

しかし、奇抜な形状をした、5番街のミュージアム・マイルにある 美術館が完成したのは、ソロモンの死後10年経った1959年のことでした。

かのフランク・ロイド・ライトが設計を完了したのは1944年でしたが、 前例のない異様な姿に、ソロモンもニューヨーク市当局も承認を渋り、 時間がかかったといわれます。

中央部分が何もない巨大な吹き抜けで、 周りの壁にある作品を螺旋状のスロープに沿って観て行く。 カタツムリの殻を逆さにしたようで、上の方が広く、 下に行くほど狭くなってくるというのですから、関係者の困惑も理解できます。

しかし、流石ライト。見学者にとっては、最初エレベーターで最上階に上がれば、 後はゆっくり降りていけばよく、身体は楽だし、吹き抜けを見れば、 気分は開放されるし、下を見れば後どれくらい残っているのかわかり、 精神的にも楽です。床が平行ではないので落ち着かないと言う人もいますが。

収蔵品は、ピサロ、マネ、ドガ、セザンヌ、ルノワール、モネ等の印象派から ボナール、マティス、ピカソ、ブラック、クプカ、ポロック、ロスコ等多彩です。

カミーユ・ピサロ(1830-1903)は印象派の中心人物で、全8回の印象派展に 参加した唯一の画家です。印象派の中では最年長であり、温厚な人柄で皆に慕われ、 気難しく人付き合いの悪かったセザンヌでさえ、師と仰いだほどでした。

彼の画家としての出発点は遅く、画家を志して生まれ故郷の、プエトルリコ近くの 当時はデンマーク領西インド諸島、現在のアメリカ領ヴァージン諸島、 にあるセント・トーマス島からパリに出て来た時には既に25歳になっていました。

この年に開かれたパリ万国博覧会に出品されたコローやミレーの作品に感銘し、 コローの自宅を訪れ、教えを受けたりしています。 彼の感化で戸外に出て太陽の光の下で絵を描くようになります。

余談ですが、錫製のチューブ絵具が発明されたのが1841年の事で、 ピサロが画家修業をする頃にはチューブ絵具を持って戸外で絵が描けるように なっていました。それまでは描く度に必要量の顔料を砕いて油で練る作業が必要で 室内で描くしかなかったのです。

ピサロは29歳でパリのサロンに初入選していますが、アカデミックなサロンに 飽き足らず、自由な学校アカデミー・シュイスに通います。ここは先生も誰もいず、 シュイスという人物が、モデルを雇えない画学生達のために、 モデル付きで自由に絵を描ける場を作り、提供したのです。

ここでセザンヌやモネと知り合い、後に印象派と呼ばれるグループを 形成していく事になります。ゴーギャンやカサットもピサロに学んでいます。

ピサロはやがてジョルジュ・スーラやポール・シニャックとも知己になり、 55歳から60歳ぐらいまで点描手法を試みていますが、時間がかかり過ぎるので、 止めています。晩年は風景画よりも人物画を描く事が多くなっていきました。

息子のリュシアン・ピサロ、リュシアンの娘オロヴィダも画家となっています。

グッゲンハイム美術館は常設展だけでなく、 大規模な企画展を幾つも開催していることが多く、そちらも楽しみです。

ここのカタログ本は透明なページを3枚重ねで使い、 美術館の外観と内部構造が判るようにしているのもユニークです。

(*マーク・ロスコ作「無題」,フランティセック・クプカ作「色彩による平面構成、裸婦」は著作権上の理由により割愛しました。管理人)

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