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美術館訪問記 -764 サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂、Bologna

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂正面

添付2:サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂横のポルティコ

添付3:サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂内部

添付4:チマブーエ作
「荘厳の聖母」

添付5:リッポ・ディ・ダルマシオ作
「聖カタリナの神秘の結婚」

添付6:リッポ・ディ・ダルマシオ作
「多翼祭壇画」

前回のダヴィア・バルジェッリーニ市立美術館の向かい側にあるのが 「サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂」。

ボローニャをイタリアの他の都市と区別化しているのはポルティコと呼ばれる 屋根付きの柱廊で、歴史的中心部だけで40㎞を超え、 中世の城壁の外側にあるものを含めると、最大60㎞に達するといいます。

こんな町は世界でもここだけで、その文化的、芸術的重要性により、 ボローニャのポルティコは2021年にユネスコ世界遺産に登録されています。

サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂の周りにはポルティコが張り巡らされており、 聖堂横を貫通するポルティコは街で一番幅が広い事で有名です。

1346年に建造を開始し、15世紀に完成をみた赤茶色のこの聖堂はゴシック様式で、 前庭を四角く囲むアーチの多い優雅な柱廊が特徴。 内部は三廊式。薄茶色の床に赤茶色の柱、白色の壁と天井。

この聖堂の名物となっているのがチマブーエの祭壇画 「荘厳の聖母:玉座の聖母子と天使達」。

これまで何度も引き合いに出して来たイタリア史上初の美術史家ヴァザーリの 「芸術家列伝」はチマブーエから始まりミケランジェロで終わっています。

つまり、チマブーエはイタリア美術史の起源とも言える芸術家なのです。

彼の記録は1272年にローマで活躍し、1302年にピサで死亡したというぐらいしか 発見されていないのですが、彼を「神曲」中で「絵画の世界の覇者」と称えた ダンテの記述や、この地やアッシジ、フィレンツェ、ローマ、ピサなどに残された 作品群などを基に、1240年頃フィレンツェの生まれと推測されています。

本名チェンニ・ディ・ペーポ。チマブーエは「雄牛の頭」という意味のあだ名です。 人の批判には耳を貸さぬ頑迷な性格を揶揄したと考えられています。

チマブーエの絵画には、金地の背景、正面性・左右相称性の強い構成、 人物の図式的・平面的な配置のしかたなど、古代ギリシャ様式を基礎に持つ ビザンティン美術の様式が、まだ色濃く残っています。

しかし、中世絵画に比べると、人物の自然な表情、聖母の台座や衣服の表現に 見られる空間表現への意識など、ルネサンス絵画への道を 確実に歩み出していることが見て取れるのです。

彼の弟子で、ルネサンスの扉を叩き、西洋絵画の父と称えられるジョットは 師の踏み出したルネサンス絵画への道を数歩先に進んだとも言えるでしょう。

チマブーエの「荘厳の聖母」はフィレンツェのウフィティ美術館や パリのルーヴル美術館にも所蔵されています。

その隣の壁にはリッポ・ディ・ダルマシオの剥落フレスコ画、 「聖カタリナの神秘の結婚」がありました。残存部はかなり鮮明です。

リッポ・ディ・ダルマシオは1353年頃ボローニャで画家の家に生まれ、 母がたの伯父で、名のある画家シモーネ・ディ・フィリッポに連れられ ピストイアで暮らした後、1389年からはボローニャに定住して1410年没。

聖カタリナは伝説上の人物で、エジプト、アレクサンドリアの王家の娘でしたが 当時最高の教育を受けた後、キリスト教に帰依し、幻想の中で天国へ運ばれ、 そこで聖母マリアによってキリストと婚約させられたといいます。

神との深い内的な結びつきを象徴する「神秘の結婚」の主題は、遅くとも14世紀に 遡る伝説に基づいており、とりわけイタリア・ルネサンス絵画にしばしば描かれ ました。この聖女の人気は、高貴な血筋に生まれ深い信仰と高い教養をあわせもつ カタリナが、ルネサンス女性のひとつの理想像だったからといえるでしょう。

リッポ・ディ・ダルマシオの手になるやや古びた多翼祭壇画もありました。