ボローニャに来たらここだけは逃せないのが「ボローニャ国立絵画館」。
その最深部中央に飾られているのがラファエロの「聖チェチーリアの法悦」。
聖チェチーリアは古代ローマ時代の殉教者としては最も知られた人物で、 種々の伝説がありますが、歴史上の人物でキリスト教に帰依し、 異教への改宗を拒絶したため、皇帝の命により西暦230年、斬首されました。
伝説によれば、聖チェチーリアは神を賛美するのに楽器を奏でながら歌ったと 言い伝えられており、音楽家の守護聖人となっています。 この絵では彼女が法悦の幻の中で天上の音楽を耳にしている様子を描いています。
この絵の隣にはジュリアーノ・ブジャルディーニの「聖母子と洗礼者ヨハネ」が 展示されています。ブジャルディーニは1475年ミケランジェロと同い年生まれで 共にドメニコ・ギルランダイオの弟子になった画家で、システィーナ礼拝堂の 壁画をミケランジェロが依頼された時にチョット手伝ったりしています。
同じ部屋にラファエロの師、ペルジーノの「聖母子と諸聖人」がありました。
ペルジーノは「ペルージャの人」という意味で、その名の通りイタリア、 ペルージャ近郊に1450年頃生まれ、1523年ペルージャ近郊で没しています。
ラファエロの父に「神のごとき画家」とまで言わしめた、確かな技量を身に着けて、 イタリア国内ばかりでなく、海外からも注文が殺到したため、 効率よく捌くために、同一パターンを繰り返し使う手法を採った事が、 型にはまって独創性のない画家と見做され、 やがて飽きられ、急速に声望を失う事になっていきます。
他の部屋に移るとジョットの多翼祭壇画がありました。 ルネサンスの扉を叩き、西洋絵画の父と称えられるジョットは、真作と証明された 作品は少ないのですが、この作品は本人の署名がある数少ないものの一つです。
ボローニャゆかりの画家達にも当然ながら広いスペースが割かれています。
ヴィターレ・ダ・ボローニャはその名の通り1310年頃ボローニャの生まれで ボローニャを中心にその周辺都市で活躍し、1360年ボローニャで没しています。 ここには彼の代表作「聖ゲオルギウスと竜」がありました。
1450年頃ボローニャに生まれ、当代最高の画家の一人と呼ばれるまでになり、 故郷のボローニャはもちろん全イタリアにその令名を馳せた、 フランチェスコ・フランチャの作品は11点を数えました。
ヴァザーリの芸術家列伝によると、ローマにいたラファエロはフランチャを 当代最高の画家と見做し、現在はこの絵画館に納められている、ボローニャの 聖ヨハネ寺院に飾る聖チェチーリアの祭壇画をフランチャの下に送ります。
「移送で絵が損じた時か、あるいは絵自体に見落としか欠点があった時は、 どうかいつでも自由に直し改めていただきたい」という謙虚な文を添えて。
天下のラファエロからこんな依頼をされて自尊心をくすぐられない画家はいません。 しかし着いたラファエロの絵を観たフランチャは茫然と立ち尽くしました。 彼我の技量の差の余りの違いに、彼は自惚れの頂点から真っ逆さまに落ちたのです。 そのため劣等感にさいなまれ、鬱病にかかって死んだと言われています。
1560年ボローニャの生まれでボローニャ派の代表者アンニーバレ・カラッチの 作品は8点あり、その中から迫真の「荊冠のキリスト」を添付します。
1575年ボローニャ生まれのグイド・レーニは、16点展示されていました。 彼は1602年ローマに出て、洗練された演劇性と感傷性、 大胆な構想と計算された構図、均整のとれた人体表現、 豊かな色彩などから古典主義画派の指導者的存在となり、 ラファエロの再来とまで呼ばれるようになるのです。
当時の教皇パウルス5世やその甥にあたる枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの注文を 受けていましたが、1612年、宮廷人としての生活より自由な画家としての活動を 選び、故郷ボローニャに戻ります。
以降は1642年に没するまで短期間の旅行を除いてボローニャを離れず、 制作と後進の指導に努めたのでした。
添付した「嬰児虐殺」は新約聖書にある物語で、東方の三博士から 新しい王(イエスのこと)がベツレヘムに生まれたと聞いて怯えた ユダヤの支配者ヘロデ王が、ベツレヘムで 2歳以下の男児を全て殺害させたとされる出来事です。
イエスの両親ヨセフとマリアはお告げでこの危機を知り、幼児イエスと エジプトに逃れており無事でした(「エジプトへの逃避」)。