次の都市はエルマイラ。ニューヨーク州西部のシェマング川中流域にある 人口2万6千人余りの静かな街です。白人が到達する以前から インディアンの集落が存在したといわれ、アメリカでも歴史の古い都市の1つです。 また作家マーク・トウェインが眠っているところとしても有名です。
この町の中心近くにあるのが「アーノット美術館」。
ギリシャ神殿のような白亜の建物に入ると、滅多に人が訪れることもないのか、 受付の老嬢がこの時とばかり、10分程熱心に説明してくれました。
それによるとこの印象的な建物は1833年完成で、その年に長男として生まれた マティアス・アーノットは後に銀行家となり、豊富な資金で芸術作品を蒐集。 1910年死亡時に土地、建物、コレクション全てをエルマイラ市に遺贈しました。
市は彼の名前を冠した市立美術館として1913年開館。
内部は富豪の邸宅らしい落ち着いた造りで、アーノットの趣味の良さが窺えますが 展示作品も相応のヨーロッパ古典からアメリカ美術まで幅広い品揃え。
佳品多数の中から数点採り上げてみますと、まずブリューゲル一族の 中興の祖とでも言うべきヤン・ブリューゲル父。ヤンは兄のピーテルとは異なり、 父の模倣ではなく独自の画風を築きあげています。
ヤンはアントワープで修業後21歳から7年間イタリアに滞在して 腕を磨いたのでイタリア流の色彩とフランドル流の緻密さを兼ね備え、 その色調から「ビロードのブリューゲル」や、 静物画や植物描写を得意としたことから「花のブリューゲル」とも呼ばれます。
ヤンの作品は3点展示されていましたが、 彼らしい色彩と風俗描写の「フランドルの祭り」を添付しましょう。
19世紀フランスのアカデミズムを代表する画家で、 女性像や少女、子供の描写に非凡なものがあり、生存中は絶大な人気を誇った ウィリアム・ブグローの傑作「芸術と文学」もあります。
ブグロー誕生の2年後、1827年ににベルギー国境に近いフランス、クリエールの 市長の家に生まれ、ベルギーのゲント芸術アカデミーで学び、パリに出たものの 都会生活に馴染めず、故郷に戻って農民の生活を描き、名を挙げた レアリスム(写実主義と訳されていますが誤訳)のジュール・ブルトンもありました。
日本ではレアリスムの画家として同じく農民の生活を描いたミレーが有名ですが、 1859年、パリのサロンで、1867年には万国博覧会で共に金賞を獲得した ジュール・ブルトンはフランスではよく知られた画家です。
彼の作品は欧米の美術館でよく目にします。特にアメリカで人気が高い。
ゴッホはブルトンに憧れ、弟のテオへの手紙の中で何回もブルトンに触れ、 1880年にはブルトンの生地クリエールまで出かけており、 この旅でゴッホは画家になる決心をするのでした。
ミレーの描く農婦はうつむき加減で生活の重みを感じているように見えますが、 ブルトンの描く農婦は昂然と胸を張り、力強さや威厳を感じさせるものが多い。
ブルトンはレジオン・ドヌール勲章のコマンダーを得たり、 サロンの審査員を務めたりして栄光の内に1906年パリで没。
イギリス生まれながらアメリカに帰化したトマス・サリーの作品がありました。
サリーは1783年英国生まれで、1792年家族と共にアメリカに移住。 12歳で絵を描き始め、18歳で職業画家として独立しています。
1807年、著名な肖像画家ギルバート・ステュアート(第310回参照)の下で3週間 肖像画の描き方を学び、1808年からフィラデルフィアに居を定め、アメリカに帰化。
1809年にはロンドンに赴き、ベンジャミン・ウエスト(第737回参照)の下で 更に9か月間修業し、ウエストから肖像画家になるよう勧められています。
サリーは帰国後1824年に国務長官だったジョン・クィンシー・アダムズの肖像画を 描くと、アダムズは翌年大統領に就任。 サリーは一躍肖像画家として上流階級の人々が門前市を成す状況となります。
彼の描く女性たちは絵のように美しく、流麗で、ロマンティック。 1837年から翌年にかけてロンドンに招聘され、 戴冠したばかりのヴィクトリア女王の肖像画を描いています。
女王が玉座に向かいつつ呼びかけに応じるように振り向いている この肖像画は大英帝国の女王を描いたものとしては実に独創的で、 女王も余程トマス・サリーに気を許したのでしょう。
サリーは1872年フィラデルフィアで死去。彼は克明な記録を残しており、 1801年から没するまでに2,631点の作品を描いています。 アメリカの美術館でサリーの絵を見かけない事はないほどなのです。
1891年末からフィラデルフィアで美術学校の教師となり、 多くの逸材を育てたロバート・ヘンライや ハドソン・リバー派の祖、トマス・コールの作品もありました。
満ち足りた思いで美術館を出ると斜め前にケムン郡家庭裁判所が見えました。