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美術館訪問記 -747 フィッゲ美術館、Davenport

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:フィッゲ美術館正面

添付2:フィッゲ美術館入口

添付3:フィッゲ美術館館内

添付4:グラント・ウッド作
「自画像」1932年

添付5:グラント・ウッド作
「アメリカン・ゴシック」1930年 シカゴ美術館蔵

添付6:グラント・ウッド作
「シャンスラードの小さな礼拝堂」1926年

添付7:グラント・ウッド作
「ボヘミアからの帰還」1935年

添付9:ジョン・カリー作
「脱穀」

添付10:フィッゲ美術館内部

次の都市はダヴェンポート。シカゴの西280㎞、アイオワ州の東部にあり ミシシッピ川を挟んでイリノイ州と接し、人口10万人余り。

町の南端でミシシッピ川を背にして佇むのが「フィッゲ美術館」。

2005年、新築開館の美術館で建設費4千7百万ドル(約56億円)。 その内1千3百万ドル(約16億円)をフィッゲ財団が負担しています。 前身は1925年開館のダヴェンポート市立美術館。

大きな建物の周囲を網で囲った独特の外観の美術館に入ると、骸骨人形たちの 出迎えを受けました。この日は10月7日でハロウィンには少し早いのですが この辺りでは10月に入ればハロウィンの季節ということなのでしょう。

この時のアメリカ旅行中、複数の美術館やホテルで同様の歓迎がありました。 入口だけでなく、幾つかの展示室の入口にも趣向を凝らした展示物がありました。

ここには唯一と言われるグラント・ウッドの自画像があります。 これまで彼の代表作2点を紹介して来ましたが本人の説明はしていませんでした。

グラント・ウッドは1891年、アイオワ州の農場主の家に生まれ、10歳で父が死亡。 1913年から銀細工職の傍ら、シカゴの美術学校の夜間コースで学びます。

第一次世界大戦中は軍用車両の迷彩のデザインの仕事をし、退役後は故郷に戻り 中学校の美術教師となります。1922年から1928年の間に4度渡欧し、 パリのアカデミー・ジュリアンで学びながら印象派やフランドル絵画など 様々な絵画に親しんでいます。ヤン・ファン・エイクには特に魅かれたようです。

そういえばウッドの代表作「アメリカン・ゴシック」は、どことなく 夫婦の結婚の様子を描いたヤン・ファン・エイクの傑作「アルノルフィーニ夫妻像」 を思い起こさせるものがありますね。

帰郷後はアメリカの大地と勤勉な農民の生活ぶりを写実的に表現した作品を 発表し続け、重要なリージョナリスト(地域主義画家)として評価されます。 1934年から亡くなる1年前まではアイオワ大学で教え1942年に51歳で死去。

リージョナリストとは、1930年代、世界恐慌を受けて孤立主義・不干渉主義を 強めていたアメリカ社会の精神的なアイデンティティを、地方の労働者達や生活、 西部開拓の風景や風習を描くことに求めた一群の画家達を指します。

彼らの作品は、アメリカの伝統的な価値観や農村生活へのノスタルジアを 表現したものと解釈されており、アメリカには数多くの愛好者がいます。

ウッドの全財産は「アメリカン・ゴシック」の娘役を努めた妹のナンに渡り、 ナンが1990年に死亡後、全財産はグラント・ウッドの遺品、残された作品も含めて 全て、アイオワ州を代表する、フィッゲ美術館に遺贈されたのです。

従ってここでは数多くのウッド作品は勿論、彼の遺品も観ることができます。

フランスでの風景画と農家の納屋を背景に人々に見守られながら絵筆を執る 自分の姿を描いたクレヨン画を添付しましょう。

いずれもアメリカ中西部の出身で、パリで学び、帰国後はリージョナリストとして 活躍したトーマス・ベントンとジョン・カリーの作品も展示されていました。

この美術館には他にもオールドマスターやアメリカ絵画多数の展示や、 アフリカ、メキシカンの収集もあり、ハイチ・ギャラリーにはハイチ人による 絵画と彫刻が12点ずつ展示され、長谷川広重の浮世絵も4点ありました。



(添付8:トーマス・ベントン作「春の嵐」は著作権上の理由により割愛しました。
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