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美術館訪問記 -745 ダラス美術館、Dallas

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ダラス美術館入口

添付2:ヴィッラ・ラ・ポーザ内部

添付4:バッキアッカ作
「洗礼者ヨハネと聖母子」

添付5:クールベ作
「雪の中の狐」

添付6:ダラス美術館内部

添付7:エドワード・ヒックス作
「平和な王国」

添付8:フレデリック・チャーチ作
「氷山」

添付9:フランク・ドゥフェネク作
「口笛を吹く少年」

添付10:国吉康雄作
「煙草を持つ泳者」

次の都市はダラス。テキサス州北部にある都市で人口130万人余り。 世界最大で最多旅客数を誇るダラス・フォートワース国際空港のある大都市で 日本からアメリカの多くの中小都市に行く場合のハブ空港になっているので 立ち寄られた方も多いでしょう。

この町の中心近くにあるのが「ダラス美術館」。

美術館は大きく分けて5つの展示場から成っています。 1、ヨーロッパ、アメリカ美術、2、アジア、アフリカ、プレ・コロンビア、 3、ヴィッラ・ラ・ポーザ、4、現代美術、5、彫刻庭園。

ヴィッラ・ラ・ポーザは、1927年にウェストミンスター卿が愛人であった ココ・シャネルにプレゼントした、モナコに近接する住宅地にあった美しい館。

1947年、卿死去の後、シャネルはこの館を売りに出し、出版業で成功し イギリスのチャーチルの広報官的役割を果たしたエメリー・リーブスがこれを購入。

リーブスは美術品の収集もしていたので、リーブスの死後、テキサス州出身だった 未亡人が別荘を再現して収集品も陳列するという条件のもとにダラス美術館へ寄贈。

印象派などの作品が数多く飾られていますが、家具、調度品も同じ様に 飾られているため、部屋の中には入れません。従って折角の絵もよく観られず、 写真も角度や照明の反射の具合でよく撮れない所が多いのが残念でした。

ヴィッラはチャーチルが気に入ってよく泊まり込みで絵を描いていたそうで、 そのチャーチルの絵も4点ありました。風景画は日曜画家丸出しですが、 花を描いた静物画1点は私の観た限りでは彼一番の出来かもしれません。

ヨーロッパ美術ではバッキアッカの「聖母子と洗礼者ヨハネ」が彼の最高傑作と 言えるような作品。バッキアッカは本名フランチェスコ・ウベルティーニ。

1494年フィレンツェの生まれで、ペルジーノやアンドレア・デル・サルトらの 下で学び、ミケランジェロに心酔していた初期マニエリスムを代表する画家です。 1540年からはコジモ・メディチ1世の宮廷画家の一員になっています。

マニエリスムはルネサンスの完成された手法(イタリア語でマニエラ)を応用し、 自然を超える優美な芸術を求めた芸術様式です。

バッキアッカというイタリア語は熟した果物を長い棒でもぎ取るという意味で、 彼の通称はミケランジェロというルネサンスの最高の果実を擬する者の意でしょう。

同時代のフィレンツェ画家達とは一線を画した、妖しい雰囲気を持つ人物表現と 大胆で冷徹な色彩選択が特徴的で魅力的な画家の一人です。

生まれながらの自然児で故郷の森林風景をよく描いたクールベは狩猟も好きで 狩猟の絵も多いですが、雪中、鼠を捉えた狐のダイナミックな肢体を描き切った 「雪の中の狐」は数多いクールベ作品の中でも印象に残る一作です。

アメリカ美術では素朴派の先駆者とも言える独学の画家エドワード・ヒックスの 「平和な王国」がここにもありました。 彼は特異な画家で同じ主題で少なくとも62作を残しています。

1780年ペンシルベニア州生まれのエドワード・ヒックスはクエーカー教徒 として育ち、13歳で幌馬車製造業者に弟子入り。馬車を飾る絵描きとして 7年間勤めた後独立して、家具や馬車の装飾業を始めます。

1812年にクエーカー教の牧師となり、伝道の傍ら絵を描いて暮らし始めます。 信仰と画家としての生活を両立するために 彼はクェーカーの教義を様々な見地から絵に描くことにしたのでした。

特に旧約聖書イザヤ書11章に記された「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に 伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」という表現を前面に ペンシルベニア州創設の時のウィリアム・ペンとレナペ族との間に結ばれた協約を 背景に描くことの多い「平和な王国」は広く受け入れられ数多く描かれたのです。

ヒックスは生存中は画家よりも牧師として知られ、 絵画の多くは家族や友人のために描かれ、生活収入は装飾業に依存していました。 1849年死亡後、アメリカ独立後に生まれた生粋のアメリカ人画家として尊重され、 アメリカ国内の多数の美術館に作品が所蔵されています。

フレデリック・チャーチの代表作とも言われる「氷山」はここにありました。

チャーチは1826年コネティカット州の裕福な実業家の家に生まれ、 早くから画才を発揮し、18歳で第731回で詳述した、ハドソン・リバー派の祖、 トマス・コールの下で2年間学んだ後独立。その年には第178回でカバーした 地元のワズワース・アテネウム美術館から作品を買い上げられています。 早くから認められ弱冠22歳で弟子が入門してくるほどでした。

画風は自然を理想化して描いた師とは異なり、自然を丹念に調査し、 忠実にありのままの姿で描くことに努め、ナイアガラやアンデスなどの壮大で ドラマティックな光景を大画面に再現しようとしたのでした。

1861年に発表された「氷山」はニューファンドランドとラブラドール周辺の 北大西洋への1859年の航海に触発されて描いたもので、大変な評判になり ニューヨークでこの絵1点だけの入場料徴収の展覧会が開かれた後、 ボストンやロンドンに巡回したほどでした。

画家として驚異的な成功を収めたチャーチでしたが、1876年に、 関節リウマチに襲われ、以後は左手で描いたりしながら1900年死去。

第741回で触れたフランク・ドゥフェネクや国吉康雄も展示されていました。



(添付3:ウィンストン・チャーチル作「赤いチューリップ」は著作権上の理由により割愛しました。
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