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美術館訪問記-741 シンシナティ美術館、Cincinnati

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:シンシナティ美術館後景

添付2:シンシナティ美術館前景

添付3:シンシナティ美術館内部

添付4:アントニオ・デル・チェライオーロ作
「幼子洗礼者ヨハネと聖母子」

添付5:コロー作
「ピエールフォン城」

添付6:ゴッホ作
「イタリアの女」

添付7:グラント・ウッド作
「革命の娘たち」

添付8:ドゥフェネク作
「エリザベス・ブート・ドゥフェネクの記念碑」

添付9:フランク・ドゥフェネク作
「メアリー・モリー・ドゥフェネク」

添付10:国吉康雄作
「デイリー・ニュース」

次の都市はシンシナティ。アメリカ中部オハイオ州にある人口31万人余りの 州内第3位の都市で、第26回のタフト美術館のあるところです。

シンシナティはオハイオ州とケンタッキー州の境界にある町で、 それら2州を分けるオハイオ川の川沿いの丘の上にあるのが「シンシナティ美術館」。

1881年の開館と、アメリカ中部以西では最も早く設立され、 所蔵品も7万点近いとか。ヨーロッパ、アメリカ美術、古代エジプト、ギリシャ、 ローマの芸術に加え、中近東・極東芸術ギャラリー、アメリカ先住民や アフリカの芸術と、家具、ガラス、陶芸、銀、衣装や民芸のギャラリーがあります。 4階建てで、主入口のある2階に50室、3階に35室、4階には3室の展示室。

丘を登り駐車した場所は美術館の裏側でスコットランドの古城のような設えの 印象的な姿。その前に欧米で何度か見かけたジャウメ・プレンサ作の「イサベッラ」 が設置されていました。これまで観たのは白色でしたがここのは黒色。

美術館の前景はネオクラシック様式。こちら側にはジム・ダインの「ピノッキオ」 が設置されています。歴史のある美術館だけに増改築を繰り返していますが、 設立当時の面影を彷彿させる重厚な展示室もありました。

品揃えも流石と言える名作揃いですが,アメリカの美術館では他には クリーヴランド美術館でしか見たことのないアントニオ・デル・チェライオーロの 「幼子洗礼者ヨハネと聖母子」が目に留まりました。

イタリアのルネサンス期の画家は仇名で呼ばれることが多かったのですが、 チェライオーロとは父親の職業、蠟燭屋という意味の仇名です。

彼の詳細は不明ですがヴァザーリの芸術家列伝によると フィレンツェ生まれで1518年から1538年にかけて活動していました。

リドルフォ・ギルランダイオの弟子だったという記録もあり、 残された彼の絵にはフィレンツェの守護聖人の洗礼者ヨハネが頻出しています。

風景画の名作が多いコローの「ピエールフォン城跡」は、 フランス北部の小さな町で、中世の城が廃墟と化した様子を描いています。

衰退と失われた過去というテーマは、コローにとって魅力的でした。 風景画の詩人、コロー曰く、「情感こそ唯一の導き手とせよ。現実は芸術の一部。 芸術を完璧にするのは情感なのだ」

コローが風景画に込めた情感は人々の心に癒しを与え、 古き良き時代さえ呼び起こし、彼の描いたノスタルジックな風景画は 人々の心の原風景となり美しき想い出となってこれからも生き続けていくでしょう。

ゴッホが弟のテオとパリで生活した時代に描かれた肖像画がありました。 モデルは、酒場の女主人、アゴスティーナ・セガトーリ。

パリ滞在中に、ゴッホは新印象派によって開発された科学的な色彩理論の洗礼を 受けました。彼は日本の浮世絵にも深い関心を持っており、この肖像画では、 ゴッホはこれら 2 つの影響を統合しています。

非対称の境界線、影も遠近感もない肖像画の人物の様式化、モノクロの背景などは 浮世絵の影響を、新印象派の点描は荒いタッチにかえていますが、上部と右端の 縞模様は両方の影響。結果はゴッホ独自の荒々しい世界の表現になっています。

アメリカ絵画も充実していますが前々回に詳述したグラント・ウッドの 「アメリカン・ゴシック」と並ぶ彼の代表作「革命の娘たち」はここにあります。

これまで名前を出しながら説明していなかったフランク・ドゥフェネクは 幼少時からシンシナティで育ち、ここで亡くなっている地元の画家だけに 116点も所蔵しているとかで、十数点が展示されていました。

ドゥフェネクはドイツ系移民の両親の子として1848年に生まれ、 15歳から地元の教会の装飾画家の見習いとして働きながら修業。 1869年ドイツに渡り、ミュンヘン美術院で学びつつ、フランドルやオランダの オールドマスターを模写し、急速に頭角を現します。

1873年アメリカに戻り、1875年ボストン・アート・クラブでの展覧会で、 激賞され、ボストンに留まるように要請されますが、彼はミュンヘンに戻り スタディオを開設。同市で学ぶ画学生たちから高い評価を受けます。

1877年にはミュンヘンで画塾を開き多くの塾生たちが参集しました。

1886年教え子でボストン生まれのエリザベス・ブートと結婚。 しかし1888年に妻は病死してしまい、ドゥフェネクはアメリカに戻り シンシナティやボストン、ニューヨークで絵画を教えて過ごします。 1919年、シンシナティで死去。

美術館にはドゥフェネクが初めて彫刻に挑んだ妻エリザベスの墓碑もありました。 メアリー・モリー・ドゥフェネクは異父妹になります。

国吉康雄(第106回参照)の「デイリー・ニュース」もありました。