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美術館訪問記 -733 カントン美術館、Canton

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:カントン美術館前景

添付2:カントン美術館内部

添付3:ウィンスロー・ホーマー作
「クローバーを摘む少女」

添付4:ウィンスロー・ホーマー作
「ライフライン」フィラデルフィア美術館蔵

次の町はカントン。クリーヴランドの南96㎞に位置する人口71,000人足らずの サービス業の町です。ここにあるのが「カントン美術館」。

街中にある美術館で入り口前にカラフルな色彩の抽象彫刻が鎮座していました。

ジェリー・パートという1948年、アリゾナ州生まれの彫刻家の作品で、 陽気なアメリカ人の嗜好に合うのか、一目で彼の彫刻とわかる、目にも鮮やかに 彩られた巨大なリボン細工のような類似の造形物をアメリカでは時々見かけます。

小都市の市民美術館とあって、比較的手ごろな価格で購入や寄贈もし易い水彩画に 注力して蒐集しているようで、水彩画の佳作がたくさん展示されていました。

前回、19世紀のアメリカ合衆国を代表する画家として挙げた ウィンスロー・ホーマーの水彩画「クローバーを摘む少女」がありました。

ホーマーは知っているアメリカ人画家と聞くと最初に挙げる人も多いのですが 何度か名前を出しながら、まだ説明していませんでした。

彼は1836年ボストンの生まれです。母親が才能あるアマチュア水彩画家で、 ホーマーの最初の教師でした。ホーマーは彼女と生涯を通じて親密な関係を保ち、 穏やかで、意志が強く、簡潔で、社交的な性質、乾いたユーモアのセンス、 芸術的才能など、彼女の特徴の多くを引き継いだのです。

地元の高校を卒業後ボストンでスタディオを開いた彼は挿絵画家として活躍。 その仕事は20年程続きました。売れて来た彼は1859年ニューヨークで開業。 仕事の傍ら美術の授業を受け、1年足らずで一流の油彩画家となるのです。 母親の好んだ水彩画も生涯描き続けましたが。

南北戦争が始まると、週刊誌ハーパーズ・ウィークリーの挿絵画家として 北軍に従軍して戦場を巡り、多くの戦争画を残しています。

終戦後1867年にはパリに1年間滞在し、自然主義的な風景画や農民画を写実的に 描いたバルビゾン派の影響を受けて帰国後は、農村の生活を描くようになります。

「クローバーを摘む少女」は1878年作でこの頃のものです。

1881年から翌年にかけてイギリスの北海に面する漁村にに滞在したホーマーは、 より厳しいイギリスの自然環境に影響されたかのように、 それまでの明るく無邪気な自然描写から、広大で圧倒的な力を持つ自然と それに立ち向かう人間というテーマを好んで描くようになり、 19世紀のアメリカを代表する画家と見做されるようになるのです。

この頃のホーマーの代表作とも言われる「ライフライン」を添付しましょう。 今回紹介する作品中これだけは油彩画です。

彼は帰国後はメイン州の海岸近くに居を構え、多くの作品を残して1910年、死去。

ホーマーは学校や個人で教えたことはありませんが、彼の作品はアメリカの 次の世代の画家達に多大な影響を与えました。前回紹介したロバート・ヘンライは ホーマーの作品を「高潔で完全な自然」といっています。

ホーマーの46年後に生まれ、アメリカを代表する挿絵画家になった N・C・ワイエスもホーマーに心酔し、居をメイン州に定めたほどでした。

N・C・ワイエスの息子でやはりホーマーの影響を受け、水彩画の名手となった アンドリュー・ワイエスの「窓の明かり」もあります。

写実主義の画家で、果物、花、ガラス製品など、自宅や旅行、フリーマーケット から調達した身近な日用品の静物画で最もよく知られている ジャネット・フィッシュの「ウォルドボロ(メイン州の地名)」もあります。

彼女は1938年生まれですが、彼女の作品の中心的な主題は、 個別のオブジェクトではなく、光の影響と色と形の複雑な関係です。 ジャネット・フィッシュの作品はアメリカの美術館でよく見かけます。

1940年生まれのナンシー・ヘイギンの「レース」も印象的でした。 この絵が水彩画というのは信じられないかもしれませんが。

ヘイギンは言います。 「絵を描くとき、なぜ物事がそのように見えるのかというパズルを解くのが 大好きです。視覚的な状況が複雑になればなるほど、私は幸せになります。」



(添付5:アンドリュー・ワイエス作「窓の明かり」、添付6:ジャネット・フィッシュ作「ウォルドボロ」および 添付7:ナンシー・ヘイギン作「レース」は著作権上の理由により割愛しました。
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