次の町はカナジョハリー。ニューヨーク市の北250㎞足らずの所にある 人口3700人弱のモホーク族の名付けた町です。
街中を流れるその名もモホーク川の川沿いに「アーケル博物館」があります。
活気のない街にしては豪華な造りの博物館は図書館も併設しており、 どちらも日曜日は1時の開館で、共通の入口前で数人が待っていました。 時間通り開館。皆図書館が目当てのようで、博物館の入場券を買ったのは小生一人。
図書館は1924年に設立され、1927年に博物館が追加されました。 この博物館はもともと、当時町の有力な実業家であった バートレット・アーケルが収集し、町へ寄贈した、ヨーロッパ絵画の傑作の複製と 19-20世紀のアメリカ絵画を保管、展示するために建てられました。
常設展示用の部屋の壁に原寸大のレンブラントの「夜警」が架かっていました。 この絵はアーケルがアメリカ人画家のマーティン・コペルショエクに依頼して 描かせたもので博物館の開館に合わせて1927年完成。 博物館はこの作品が丁度納まるように設計されたのだとか。
前々回採り上げたチャールズ・バーチフィールドの「街の夕暮れ」がありました。
バーチフィールドはエドワード・ホッパーの友人でしたが、 そのホッパーの作かと思った絵がありました。C.K.チャタートンの「島の家」。
それも道理、チャタートンはホッパーとニューヨーク美術学校の同級生で スタディオを共有した親友でした。お互いに影響を与え合ったことでしょう。
C.K.チャタートン(1880–1973)は、ニューヨーク州北部とメイン海岸の 村、町、港の家々や通りを写実的なスタイルで描いた画家です。
批評家は、彼の作品には直接性と率直さ、そして光の遊びとパターンを捉える 能力があると言い、中には「手押し車や暗渠が並ぶ狭い路地の中に、刺激的な デザインと人情味のある温もりを見つける力がある」と絶賛した人もいました。 彼の絵は、「感傷を改竄することなく微笑んでいる」と別の人は書いています。
同じくニューヨーク美術学校の同級生だったジョージ・ベローズが 愛娘を描いた「アニー」もありました。
ジョージ・ベローズ(1882-1925)は大学で英文学を学んでいたのですが、 戯れに描いた作品が大学の年鑑に載せられたのに自信を得て、卒業を待たず、 画家になるべく1904年にニューヨークに出てニューヨーク美術学校で学ぶのです。
都会の下町や労働者階級の人々の生活を写実的に描く「アシュカン派」の 代表的画家となって活躍しますが、惜しくも42歳で虫垂炎の手術後に死亡。
何らかの媒体で彼の代表作「ジャック・デンプシーとフィルポ」をご覧になった 方もおられるでしょう。それまで誰も描いたことのなかったボクシングを題材に ドラマティックな構図で一瞬の出来事を見事に活写してくれています。
上記3人のニューヨーク美術学校での師だったロバート・ヘンライの「モイラ」も あります。ヘンライは1865年オハイオ州生まれ。
ペンシルベニア美術アカデミーで学んだ後、1888年にフランスに渡り、 アカデミー・ジュリアンで学び、1891年末にフィラデルフィアに戻り、 美術学校の教師となります。
第534回で詳述したウィリアム・グラッケンズら仲間8人で1908年に最初の展覧会 を挙行後、彼らのグループは外部から「ザ・エイト」と呼ばれるようになります。
彼らは共通の流儀があったわけではなく、全く独自の道を歩む画家たちの集まり でしたが、各地で企画展を催し、徐々にメンバーの知名度は上がっていきました。
1909年からニューヨーク美術学校の教師、1915年から1928年までは アート・スチューデンツ・リーグで教え、上記3人の他にもエドワード・ホッパー、 ジョン・スローン、国吉康雄など有名画家たちを輩出しています。1929年死去。
第533回で触れたウィリアム・メリット・チェイスの「スタディオの片隅」も ありました。彼のスタディオは豪華な装飾品や家具で飾られ、 当時の知識階級の社交場の役割も果たしていました。
1907年まではチェイスもニューヨーク美術学校の教師で ジョージ・ベローズやエドワード・ホッパーなどを教えていたのです。
第178,179回で記述したアボット・セイヤーの「髪を梳く少女」もあります。
19世紀のアメリカ合衆国を代表する画家ウィンスロー・ホーマーの作品は 驚くことに21点もありました。
田舎町に居ながらこれら全てを収集寄贈したバートレット・アーケルの 鑑識眼と資金力には脱帽しなければなりません。
(添付3:チャールズ・バーチフィールド作「街の夕暮れ」、添付4:C.K.チャタートン作「島の家」は著作権上の理由により割愛しました。
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