次の町はフランクフルト・アム・マイン。マイン川沿いのフランクフルトという 意味で通称フランクフルト。欧州中央銀行がある金融都市で人口76万人弱。 ドイツ5番目の大都市で金融の拠点というだけでなく芸術都市でもあります。
摩天楼が建ち並ぶマイン川北側に面して南側にあるのが「シュテーデル美術館 」。 ドイツでも一二を争う優良美術館なので古典と近代、2回に分けて書きましょう。
1817年にフランクフルトの銀行家のヨハン・フリードリヒ・シュテーデル遺贈の 美術品を集めた財団として設立されたシュテーデル美術館は、 ドイツで最も長い歴史と高い名声を誇る美術財団のひとつです。
現在は絵画3,100点、彫像660点、写真5,000点以上、素描・版画100,000点以上 という桁違いの作品数を所蔵。展示されている絵画は、そのうちの僅か600点。 従って何度も訪れないと全容は掴めません。
オールドマスターは3階に展示されていますが、ここの床は石畳風。 美術館で他にこのように時代を感じさせる床があった記憶はありません。
品揃えは超一級で絞るのに困る程ですが、見逃せない作品を年代順に採り上げます。
最初はヤン・ファン・エイクの「ルッカの聖母」。 大きな玉座に比べ異常に狭い部屋にいる聖母子ですが、これは礼拝堂を模しており エイク一流の精密で繊細な描写で絵の前に釘付けにされてしまいました。
続いてボッティチェッリの「若い女性の肖像」。 この美しい女性に見惚れない人はいないでしょう。モデルは絶世の美女と謳われた シモネッタ・ヴェスプッチ。22歳で結核で亡くなっており、彼女の死後描かれた この絵が、はかなく若干の憂いさえ感じさせるのは気のせいでしょうか。
シモネッタは当時フィレンツェを牛耳っていたメディチ家の次男、 ジュリアーノ・デ・メディチの愛人で、メディチ家に可愛がられていた ボッティチェッリはよく知っていたのです。 彼女の胸元のカメオはメディチ家のコレクションの中でも有名なものです。
滅多にお目にかかれないヒエロニムス・ボスの「エッケ・ホモ」があります。
聖書によると,総督ピラトは,キリストを捕え,兵士に鞭打たせ,紫の王衣と いばらの冠を着せて嘲弄させたのち,彼を公衆の面前に引出し, 「この人を見よ (ラテン語でエッケ・ホモ) 」と語りかけるのですが, イエスの反対派は一斉に「十字架につけよ」と叫んだとあります。
鞭打ちに傷つき,手を縛られたみじめな姿のイエスをピラト,兵士とともに 壇上に配し,その下に醜い敵対者の群衆をおく構図は多く観られます。
ドイツの生んだ最高の画家アルブレヒト・デューラーの「ヨブの忍耐」。
この図は二分割された片方と考えられ、旧約聖書の「ヨブ記」の主人公 ヨブがその信仰心を試すために数々の試練を与えられ、それでも耐え忍んで 信仰心を失わなかったので、最後には神から祝福されて140歳まで生きたという話。
図は酷い皮膚病に苛まれるヨブに妻が少しでも楽になるよう水をかけているのです。
肖像画の名手ハンス・ホルバイン子の鮮烈な肖像画「サイモン・ジョージ」も 目を惹く絵です。無垢で深い愛という花言葉のカーネーションを持つ ジョージは、この絵を求愛の相手に贈るべく描かせたのです。
ジョージは最新のファッションで仕立てられた豪華な衣装を着ているだけでなく、 当時流行のアンティーク・コインに由来するトンドの横顔を所望したのでした。
地元フランクフルト出身のアダム・エルスハイマーの「洪水」がありました。
彼はドイツで画家としての修業後、20歳でイタリアへ赴き、ヴェネツイアを経て ローマに至り、同地に滞在していたルーベンスと親しく交わるようになります。
エルスハイマーの鮮烈な色彩、細密な描写、静謐感漂う詩情、 革新的な光の表現等はルーベンスやレンブラントを始めとする同時代の 画家ばかりでなく後世の画家達にも大きな影響を与えています。
エルスハイマーの死後、ルーベンスは「小さい人物画、風景画、その他多くの主題 において彼にかなう者はいなかった。人は彼から、これまでもこれからも決して 見ることのないものを期待することができた」と言っています。
レンブラント30歳の頃の傑作「眼を潰されるサムソン」もドラマティック。
旧約聖書中の有名なサムソンとデリラの話は説明の要がないと思いますが、 娼婦デリラに懐柔されて自分の怪力の源が髪にあると漏らしてしまったサムソンが 寝込んだ後デリラに髪を切られ、敵対するペリシテ人たちがこれ幸いと、 襲い掛かり、短剣でサムソンの眼を潰している場面です。
レンブラントは、洞窟のような寝所から逃げるデリラに強い光を浴びせ、 彼女の何とも異妖な表情を捉えています。暗がりで行われる捕縛。 脱力したサムソンを必死で押さえる、極めて動的なペリシテ人兵士たち。 左手奥から右手前に向かって走る光の流れは対角線的で、緊張感を高めています。
最後にフェルメールの「地理学者」を添付しましょう。
当時のオランダは海洋貿易が盛んでした。彼が着ているガウンは、日本から 輸入した丹前、もしくは着物をガウンに仕立て直したものだと考えられています。 当時、オランダの富裕層や知識人の間では、日本の着物が愛用されていました。