次の町はエアフルト。フランクフルトとドレスデンの中間辺りにあり、 テューリゲン州の州都で1200年の歴史ある古都です。人口21万人強。
この街の中心、エルフルト中央駅近くにあるのが「アンガー博物館」。
1886年開館で1711年建設の特徴的な色彩の豪奢なバロック様式の建物です。 画家フリ-ドリヒ・ネルレイの作品とコレクションの市への贈呈が基になっており その後市民の寄贈によって所蔵品は拡大して来ています。
フリ-ドリヒ・ネルレイは1807年エアフルトで生まれ、様々な画家修業後 1828年ローマへ移住。1835年にはヴェネツィアに永住して景観画家として 名を馳せました。1878年ヴェネツィアで永眠。
絵画の展示作品はそれ程多くはありませんが、ドイツ・ルネサンスの雄、 クラーナハの「幼子をわがもとへよこしなさい」がありました。
子供を連れた母親が右から次々とキリストのもとへ押し寄せる中、 弟子たちは左から殺到し、ペテロは両手を挙げてキリストを防御しています。
クラーナハはこの主題で同工異曲の作品を幾つも残していますが、 これは、信仰は知性や学んだ知識を必要としないという、 彼の親友だった宗教改革の中心人物、マルティン・ルターの思想を示す プロテスタントの立場からの絵画テーマの一つです。
ヨーゼフ・アントン・コッホ (1768-1839) というオーストリア出身で 1794年以降はほとんどイタリアで過ごした新古典主義では最有力な風景画家の 「木々の茂るパリアーノ近くの風景」もありました。
コッホの作品はドイツの美術館にはたいていあると言ってもよいくらい、 よく見かけます。パリアーノはローマの東にある山中の寒村です。
ヨハン・エルトマン・フンメル(1769-1852)の「娘マリーの肖像」は 愛娘への父親の思いが伝わってくるほのぼのとした作品ですが 背景の浮彫の細密描写も肖像画の背景として非常に珍しいものです。
フンメルはドイツ、カッセルで生まれ、カッセルの美術学校で学んだ後、 イタリアに移り、ドイツの風景画の画家グループの一人としてローマで活動。
1799年にドイツに戻り、ベルリンで活動し、肖像画家としても働きます。 1809年にベルリン美術アカデミーの教授に任じられています。 息子のフリッツ・フンメル(1828-1905)も肖像画家として著名でした。
アーネスティン・ヴェンデル(1790-1857)の「生け花」という見事な静物画が ありました。ヴェンデルはベルリンで活躍したドイツ人女流画家で 静物画のスペシャリストでした。特に花々の描写に卓越した手腕を発揮し、 この絵も繊細に描かれ、細部までため息の出るような美しさです。
この博物館にはドイツでも最も重要な表現主義の壁画があるということでしたが、 そんなものは見当たりません。受付に戻って販売している絵葉書を探すと それらしいものがあるので、それを示しながらスタッフに聞くと、 鍵を持って閉ざされた鉄格子の扉に向かい開けてくれました。
そこは狭い洞のような部屋で、その壁一面にヘッケルの壁画があるのでした。
ヘッケルは何度も名前を出しましたがまだ説明していませんでした。
エーリッヒ・ヘッケルは1883年、ドイツのザクセン州に生まれ、 ドレスデン工科高等学校で建築を学び、1905年、学校で出会ったキルヒナー、 シュミット=ロットルフとともにドイツの表現主義集団「ブリュッケ」を設立。
ブリュッケではマネージャーの役割を果たし、ミュンヘンなど他の地区で 活動する次世代アーティストたちとのネットワークを築くなどして貢献しました。
1922年に当時のアンガー博物館館長でヘッケルの長年の友人である ウォルター・ケスバッハの招きにより、その一室に壁画を描きます。
仕事の大きさに刺激され、40歳近いヘッケルは、彼の人生の巨大なパノラマを 作成し、これまでの彼の知的および芸術的発展を総括しようと試みました。
この壁画は「人生の諸段階」と名付けられ、 現存するドイツ表現主義の最も重要な壁画とみなされているのだとか。
1937年、ナチが政権を握ると、ヘッケルの作品は「退廃芸術」とされて 公開が禁じられ、700点以上の作品がドイツの美術館から没収されただけでなく、 1944年までに全ての版木や作品が破壊されてしまいます。
しかし多作で知られるヘッケルは1955年まで教壇に立ちながら制作活動を続け、 人生最後の7年間で200点以上の作品(主にエッチング)を制作しています。 プリミティブで大雑把な画面構成と雑な彫りが特徴の彼の作品は、エネルギーと 不思議な洗練さとを持ち合わせ、今でも観るものを魅了し続けているのです。
(添付8:エーリッヒ・ヘッケル作「人生の諸段階」は著作権上の理由により割愛しました。
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