次はデュッセルドルフ。人口ではドイツ第7位の都市で62万人弱。 この地方の経済、文化の中心で、ここにあるのが「芸術宮殿美術館」。
市の中心部の北側、ライン川の東岸に建つ3階建ての大きな建物で1932年開館。
そのコレクションは1710年まで遡り、17世紀後半からデュッセルドルフ市を 統治して市民の人気を集めたヤン・ヴェレム選定候とその妻アンナが、 私的な美術品のために設立したギャラリーを起源としています。
妻アンナはメディチ家出身で、フィレンツェでイタリア芸術を満喫しており、 彼女の影響でヤン・ヴェレム選定候が芸術家の支援に目覚め、芸術を奨励し、 自らも積極的にコレクションを拡大していったのでした。
彼らの遺勲でしょうか、ドイツではベルリン絵画館とフランクフルトの シュテーデル美術館でしか同時に観られないジョヴァンニ・ベッリーニと チーマ・ダ・コネリアーノが揃っていました。
気品高い古典の名作に接すると何やら心が浄化されて行くような気がします。 ジョヴァンニ・ベッリーニは第55回、コネリアーノは第224回を参照して下さい。
古典ではルーベンスの「聖母被昇天」も目を惹きました。 ルーベンスは同じ主題で4作残していますが、アントワープの 聖母マリア大聖堂(第109回参照)の作品が最も知られているでしょうか。
聖母被昇天については第365回を参照して下さい。
気品高いと言えばナザレ派の筆頭ヨハン・フリードリヒ・オーヴァーベックの 「ノリ・メ・タンゲレ」もその言葉に相応しい。
ナザレ派は1809年、ウィーン・アカデミーに学んでいた学生6名が アカデミーに反抗して結成した集団を指し、翌年ローマのサンティシドロ修道院跡 に籠って中世の画家のような宗教への奉仕と共同制作を目指したもので、 彼等の髪を伸ばした異様な風体からナザレ派と呼ばれたものです。
「ノリ・メ・タンゲレ」はラテン語で、キリストが復活後、喜んで近づこうとした マグダラのマリアに言ったとされる言葉で「私に触れるな」という意味です。 まだ身体が清められていないからとか、まだ神の身元に召される前だからと 解釈されています。多くの絵画の主題となっています。
ナザレ派に強い影響を受けたカール・フェルディナンド・ゾーン(1805-1867)の 「タッソと2人の女性」も優雅な趣を湛えた作品です。
ゾーンはベルリン生まれですが、デュッセルドルフ美術学校で学び、 1830年から翌年にかけてローマに滞在し、同地でオーヴァーベックに強く感化され、 ナザレ派同様、宗教や、文学作品を題材とした作品を多く描いています。
後にデュッセルドルフ美術学校教授となり、死ぬまでその職にあり、 個人的な弟子もとって数多くの画家を育てています。
息子のカール・ルドルフ・ゾーン(1845-1908)は肖像画家として有名になり、 甥で、義理の息子となったヴィルヘルム・ゾーン(1829-1899)も 画家になっているので、3人を混同しないよう注意が必要です。
「タッソと2人の女性」はゲーテの戯曲「トルクァート・タッソ」に基づき、 詩作に耽る16世紀のイタリアの桂冠詩人タッソに興味深々の女性を描いています。
この絵は1839年パリのサロンに出品され高い評価を受けました。。
カール・フェルディナンド・ゾーンの6歳年下ながらデュッセルドルフ美術学校で 共に学び、ローマにも同行し、1859年にはデュッセルドルフ美術学校校長になった 生涯の親友のエドゥアルド・ベンデマン(1811-1889)の作品もありました。
「井戸端の2人の女性」はオーヴァーベックの「イタリアとゲルマニア」 (第92回参照)から強い影響を受けたものです。
左側の女性はイタリアの象徴、右側の女性がドイツ(ゲルマニア)の象徴と見做され、 金髪のゲルマニアは、お姉さん格のイタリアに頼るように肩に手を置き、 黒髪のイタリアは、もの静かな面持ちで、やさしくゲルマニアに手を差し伸べて います。これは、両国の美術的な結びつきを祝福した寓意画なのです。
左側の景観描写ものどかに二人を祝福しているかのようです。
フランツ・マルクの「樹下の裸婦」も彼の作品では初見の裸婦で珍しいものです。