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美術館訪問記 - 695 フリース博物館、Leeuwarden

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:アフスライトダイクの眺め

添付2:フリース博物館旧館 写真:Creative Commons

添付3:フリース博物館新館 写真:Creative Commons

添付4:ホーファールト・フリンク作
「サスキア」

添付5:ヴァン・ダイク作
「イサベラ・ブラントの肖像」
ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

添付6:ローレンス・アルマ=タデマ作
「16歳の自画像」

添付7:ローレンス・アルマ=タデマ作
「Amo Te Ama Me」

添付8:フリース博物館内

次の町はレーワルデン。オランダ北部、フリースラント州の州都で、商工業都市。 人口9万4千人足らずで、中心部分は日本の皇居位の面積で、皇居の堀のように 運河で周囲を取り囲まれています。そこにあるのが「フリース博物館」。

レーワルデンはアムステルダムから車で約130㎞。

途中、アフスライトダイク(締め切り大堤防)と呼ばれる堤防を通るのですが これが全長32㎞、全幅90m。1927年から1932年にかけて建設されました。 この堤防により大海を2つに分け、 北側は北海、南側はアムステルダムまで続く巨大な淡水湖になっています。

東京湾アクアラインが全長約15㎞ですから、その倍以上の長さの堤防が海を塞いで いるのです。堤防上は2車線ずつのハイウエイとなっており、海に面する北側が 一段高く造られています。どこまでも続くかのような海上の道を走るのは爽快です。

1881年開館のフリース博物館は殆どの部屋がフリースラントの歴史や文化に 関するコレクションで埋められており、絵画の展示は2階の2部屋のみでした。 尤もこれは私たちが訪れた2005年のことで、完全に装いを新たにした新館が 2013年に開館していますから、現在はどうなっているのか知りません。

絵画展示室の窓際の壁の中央に鎮座していたのがレンブラント作「サスキア」。 1636年作で、サスキアがレンブラントと結婚して2年目のときです。 肖像画からはレンブラント夫人としての落ち着きが感じられます。

ところが現在、この作品はホーファールト・フリンク作と訂正されています。

ホーファールト・フリンクは1615年、現在はドイツ領になっている クレーヴェの生まれで、14歳でレーワルデンに来て絵画修行を始めます。

1633年、アムステルダムに出てレンブラントのもとで助手として働き、 1636年独立します。この「サスキア」はその時の感謝の意として描いたのでしょう。

アンソニー・ヴァン・ダイクが師のルーベンスの下から独立する時に描いた ルーベンスの妻イサベラ・ブラントの肖像画も有名ですね。

独立後は歴史画家、肖像画家として活躍。初期の作品は、レンブラントの影響を 強く残していましたが、やがてルーベンスの優雅な様式を取り入れ高く評価され、 成功した画家として1656年にオランダ東インド会社の取締役の娘と結婚します。

順風満帆のフリンクでしたが、アムステルダム新市庁舎を飾る 12点もの大作を制作中に1660年、45歳の若さで急死しています。

フリース博物館で特筆すべきはアルマ=タデマ作品が17点もあることで、 私の知る限り世界最大の所有数です。

ローレンス・アルマ=タデマ(1836-1912)はレーワルデン近郊の生まれで、 4歳で父を亡くし、弁護士になるべく勉学に励んだのですが、15歳で肉体も精神も 病み、先行き永くないと診断され、好きな絵を描いて過ごす生活を始めました。

ところが、これがよかったのか、健康を回復。 翌年アントワープのロイヤル・アカデミーに入学し本格的に絵の道を志します。 幾つかの工房の助手をした後、27歳で結婚。新婚旅行でイタリアを旅し、 ポンペイの遺跡で古代ローマの壁画に感銘を受け、歴史画の道を進む事を決意。

6年後、妻が2人の幼子を残して死亡。絵が描けなくなったローレンスは 気分転換も兼ねてイギリスに渡り、著名な画家フォード・マドックス・ブラウン の家に招かれ、居合わせた、まだ17歳の画学生ローラに一目惚れ。

イギリスに帰化して彼女と結婚し、以後ヴィクトリア朝の画家として活躍します。 英国での彼の作品に登場する女性のモデルはローラである事が多いと言われます。

ローラ・アルマ=タデマも名のある画家として遇されました。

この博物館にはローレンスが絵を描き始めた頃の「16歳の自画像」もありました。

ローレンスのイギリス帰化後の注文作は特注の豪華壮麗な額に収まっているものが 多いのですが、ここにもそんな「Amo Te Ama Me」がありました。

Amo Te Ama Meはラテン語で「私は貴方を愛する、貴方も私を愛して」という意味。