次の町はラーレン。アムステルダムの南東30㎞足らずの所にある人口1万2千人程の街です。1870年頃画家のヨゼフ・イスラエルスがこの村を芸術家村として見出し、息子のイサークやアントン・モーヴ、ヤコブ・マリスなどのハーグ派の画家達が頻繁に滞在したり、移住して来たりした場所でした。
1882年、アントン・モーヴが妻に宛ててラーレンについて書いた手紙には「ここは感動するほど美しい。村内の家々、道路、牧草地、美しい荒野と茂み、そして想像できる最も親切な人々などの全てから美と詩情が溢れ出ているのです」
アメリカ、ピッツバーグの鋼鉄富豪の息子で画家だったウィリアム・シンガーが妻のアンナと共に1901年、ここに移り住み、豪邸を建て、画家達のパトロンとなり、収集した絵画と土地、家屋を遺贈して1965年「シンガー・ラーレン美術館」開館。
美術館前広場の訪問者や通行人を出迎えるのはイケムラレイコ(1951年生まれ)の印象的なブロンズ像。この「うさぎ観音像」は東北大地震に際して制作されました。
この像は鑑賞者が下部にもぐりこめるようなスケールと構造を持ち、神聖なるものの像というだけでなく寺院でもあるのです。
イケムラレイコ曰く「このスカートは保護を求めてもぐりこむ洞窟のようなものです。スカートや頭の穴から光が、空からの光が入ります。スカートにあいた小さな穴とスカート内部の暗さによって星のように見え、まるで宇宙の中で守られているかのように思えるでしょう」
館内でまず目についたのはシンガー夫妻の友人だったフランス人アンリ・ル・シダネルの「青いテーブル、ジェルブロワ」。
シダネルは1862年生まれで10歳まで、インド洋のモーリシャス島で過ごしました。マダカスカルの東方、約900kmにある島です。絵画好きの父、音楽好きの母、一家には芸術的な感性が満ちており、シダネルも絵の天分に恵まれていました。
一家で帰仏後、20歳でパリの国立美術学校に入学。23歳で海沿いの町エプタルに移住し、25歳でパリのサロンに初入選。9年間をエプタルで過ごした後、パリに出てアトリエを構えます。1897年1月に、マンシーニ画廊で初めての個展を開催し、大成功を収めています。
翌年シダネルは後に結婚する女性を伴ってベルギーのブルージュを旅します。この旅行がシダネルの作品を根本から変えることになったと言われています。ブルージュは運河、石畳の道、石造りの建物など中世の面影が色濃く残る美しい町です。彼は都市の詩情と気品を点描風に表現するようになるのです。
この「青いテーブル」は画家が愛したパリ北方の小さな町ジェルブロワを舞台に、この街並みがもつ古風な情緒と生活の一端を美しく描き出した彼の最高傑作です。点描による色彩の調律の美しさはこの作品を更に魅惑的なものにしており、人物はどこにも描かれていませんが、人の気配を感じさせる手法は、彼の特徴です。
彼の描く詩情豊かな風景画や静物画は国際的な評価を受け、晩年にはフランス・アカデミーの会長を務め、レジオン・ドヌール勲章を受章したりして芸術家として幸せな一生を終えています。1939年没。
この美術館は10点というシダネル作品の世界最高の所蔵数を誇ります。もう1点、フランス、ノルマンディーにある古代ローマ時代からの古都リジウーの佇まいを描いた「曇り空の夕暮れ、リジウー」を添付しておきましょう。
なおシダネルの妹マルトは画家ジョルジョ・ルオーと結婚しています。
19世紀後半から20世紀初めにかけてラーレンを活動の場とした画家たちを「ラーレン派」と呼びますが、それを代表するのがアルベルト・ヌーハイス。
1844年ユトレヒトの生まれで、ユトレヒトとアントワープの美術学校で学んだ後1876年にハーグに移りハーグ派の画家として活動します。ハーグの都会化により絵画のテーマとして魅力を失った頃、ヨゼフ・イスラエルスからラーレンの景色のすばらしさを教えられ1880年代のはじめにラーレンに移住するのでした。
主にラーレンで活動の傍ら、アメリカ、イタリア、スイス、オーストリア、ロシア、アルジェリア、ギリシャなどの国々で生活し、農民や、職人の生活を描きました。1911年にはスイスに居を移し、1914年死去。
ラーレン派のメンバーでもあるイサーク・イスラエルスの作品8点とアントン・モーヴの作品も展示されていました。ミディネッテとは作品中の女性たちが被っている帽子のことです。
ピエト・モンドリアンとともにオランダにおけるモダニズム絵画の画家レオ・ヘステル(1881-1941)の「タバコを持つ女」も魅力的でした。
ピエト・モンドリアン作品では「アレッタ」という素描が異彩を放っていました。