次の町はフローニンゲン。オランダ北部にある商工業の中心都市で人口20万人余り。
この街の中心、フェルビンディングス運河の水中に建てられた美術館が「フローニンゲン美術館」。第673回のボヴリ博物館のように川中の中州の上に建てられた美術館は他にもありますが、水中に直にある美術館はここだけでしょう。
しかも美術館そのものが美術品のようなカラフルでコケティッシュな建物の集合体。デコンストラクションという立体パッチワークのようなスタイルの建築物で、複数の建築家の合作です。
フローニンゲン美術館は1874年開館と歴史のあるものなのですが、やがて手狭になり100年後に新館建築の運びとなり設計主任として、選ばれたのがイタリアの建築家、アレッサンドロ・メンディーニ。
80年代を代表するイタリアのデザイナーで、機能性や理想主義に終始したモダニズム・デザインへの反発から、カラフルで楽しく、自由な発想を掲げたポストモダン建築の旗手でした。
メンディーニは言います。「人は皆違っているのに、何故物はそうであってはならないのか?」
メンディーニの基本デザインは、運河の水中に建てられた3つの単純で簡素な独立した建築物を通路でつなぐというものです。これらの通路は同時に橋になっていて、二つの岸をつないでいるだけではなく、両岸に分かれた市の中心部を直接結ぶ役割を果たしています。
中心部はメンディーニの設計で、他の2つの建物はパリからフィリッペ・スタルク、ロサンゼルスやウィーンに事務所を持つコープ・ヒンメルブラウが招かれてそれぞれ独自の設計をしているのです。1994年完成。
まるでパッチワークのようなカラフルで楽しい美術館の一部を眺めながら橋を渡り美術館正面に立つと、美術館には不似合いな金色の塔が直立しています。メンディーニによれば、これは美術館の保管庫で美術館の心臓部分なので中央に置かれているのだとか。
受付をして館内に入ると、サイケデリックな色彩に溢れる階段を下りなければなりません。それ自体が芸術作品で、メンディーニの特徴がここにも表れています。訪問者はまず、伝統的な美術館のように、「高尚な芸術作品」へと階段を上るのではないということなのでしょう。
150年の歴史に支えられてコレクションも充実していますが、中でもフランドルの画家たちの作品に光るものが多い。
ルーベンスの「東方三博士の礼拝」は、ルーベンス作品では美術館でよくみかける弟子に渡して本作を描かせるための下絵ですが、豊満な女性を描くことの多いルーベンスとは異なり、聖母マリアの顔が小粋にすっきりと描かれています。
また通常キリストは首の座った、生まれたばかりの新生児としてはありえない姿で描かれるのが普通ですが、この絵では首を垂れて新生児らしさをみせています。
ルーベンスの16歳年下の弟弟子ヨルダーンスの「洗礼者ヨハネ」は明暗を巧みに使い分けて若いヨハネにスポットライトを当てています。
首を傾けて何かを一心に見詰める少年の眼差しと、光の宿るその眼の表現が訴えかけてくるようなミハエル・スウェールツの「少年」も心に残ります。
ミハエルはミヒールとも言われます。1618年ブリュッセル生まれのカラヴァジェスキで、誰に絵を習ったのかは不明ですが、1640年代半ばにはローマにいて10年程滞在していました。
その後ブリュッセルやアムステルダム、パリ、ペルシャなどで活躍した後一人旅で赴いたインドで1664年客死しています。
成功した画家でしたが死後忘却され、20世紀に最も興味深く謎めいた芸術家の一人として再発見されました。
この少年の眼差しにはどこかで会ったような気がしたのですが、第178回のワズワース・アテネウム美術館に「帽子を被った少年」がありました。洗練された色彩が素晴らしい。
スウェールツにはこの表情の少年に余程深い思い入れがあったのでしょう。
近代の画家ではマティス・マリスの「水を汲む少女」が目を惹きました。
マティス・マリスは1839年ハーグの生まれです。兄のヤコブ・マリスと弟のウィレム・マリスも名の知れた画家で、オランダの美術館ではよくみかけます。
マティスはハーグとアントワープの美術学校で学んだ後、ハーグで兄のヤコブと同じスタディオで働き始めます。1865年にパリに移って成功した兄に呼ばれて1869年にパリに行くのですが、1870年に勃発した普仏戦争で苦しい生活となります。
スコットランド出身の画商の勧めで1877年ロンドンに移り、1917年死去するまでロンドンで暮らしました。ハーグ派の一員としてスタートしたマティスでしたがロンドンでラファエル前派の影響を受け、幻想的な人物画を多く残しました。