マウリッツハイスとホフ池を挟んで対面する小美術館が「ブレディウス美術館」。
マウリッツハイス美術館館長を20年間務めた、オランダ美術の専門家で美術収集家アブラハム・ブレディウス(1855-1946)がハーグ市に遺贈した、絵画200点余りを含む美術品や家具を展示する美術館です。
ブレディウスは1924年に余生を送るべくモナコに移住しており、彼がハーグで住んでいた邸宅が彼の死後、市立のブレディウス美術館として使用されて来ていたのですが、財政難のため1985年閉館。
美術館再開を目的としてブレディウス財団が設立され、資金集めのためコレクションを日本とアメリカに巡回させ、篤志者からの寄贈も得て、ハーグ市の所有していた建物を借りて現在の美術館が開館したのが1990年。
18世紀に建造された小振りの邸宅の1,2階を使用したこぢんまりした美術館ですがブレディウスが所有していた家具や銀器、中国製陶磁器などが各部屋に配置されて邸宅美術館の佇まいになっています。
ここの特徴はヤン・ステーン作品が6点もあることで、ブレディウスは他にも3点、ステーンの絵画をマウリッツハイス美術館に遺贈しています。
オランダ黄金期の絵画は多少の知識がないと理解し難いものが少なくないのですがそのようなヤン・ステーン作品を3点、紹介しましょう。
「サテュロスと農民の寓話」はステーンや他の画家たちも好んで描いた主題です。
イソップ寓話「サテュロスと旅人」から派生した画題で、牧神サチュロスは極寒の日の夜、難儀をしていた旅人を自分の家へと招待します。旅人は礼を言い、凍えて感覚がなくなった両手を温めようと息を吹きかけました。サテュロスは充分に温められた料理でもてなします。スープがとても熱かった為、旅人は息を吹きかけて冷まそうとしました。それを見ていたサテュロスはぶるぶる震え出し、こう叫んだのです。「二種類の息を出せるような奴は家に入れたくない!」と。こうして旅人はサテュロスの家を追い出されてしまったのです。
スープを注ごうとしている女性のモデルはステーンの妻で、後方の子供たちはステーンの息子たち。彼らの活写ぶりや、卓上のバター、卓下の猫、サチュロスの持つ杖など、ステーンの描くディテールは実に魅力的です。
「トビアスとサラの結婚の夜」は旧約聖書中のお話で、長い物語なのですが、要約すると、神から遣わされた大天使ラファエルの化けた旅人と旅を続けたトビアスは、これまで7人の男性が初夜に死んでしまったというサラと結婚する破目に陥ります。
その時、ラファエルの勧めで旅の途中捕らえていた魚(この絵では怪獣)の心臓と肝臓を取り出して焼くと、その匂いに弱い、サラにとりついていた、悪魔は逃げ出し、神の御心に適うトビアスとサラは幸福に暮らしたというお話です。
「アハシュエロスの激怒」は旧約聖書の「エステル記」の中のお話で、ある時、悪代官ハマンに土下座をしようとしないモルデカイに憤ったハマンは、彼と同じユダヤ人を皆殺しにしようと企てます。
アハシュエロス王は欺かれてユダヤ人を皆殺しにする勅書に署名してしまいます。
しかしハマンは、王妃エステルがモルデカイの育てた少女ハダサであることを知らなかったのです。エステルは酒宴を企画し、その場ですべてが暴かれ、王の逆鱗に触れたハマンは処刑され、モルデカイが新首相に任ぜられ、こうしてユダヤ人たちは守られたのというものです。
アハシュエロスは歴史上はクセルクセス1世という実在したペルシャの大王でギリシャへの大遠征を企てるものの失敗し、紀元前465年暗殺されています。
アールト・ファン・デル・ネールの「城壁外の氷上風景」がありました。
アールトは1603年頃アムステルダムで生まれ、職業画家になったのは、1630年代初めのこと。絵の売れ行きはさっぱりだったらしく、やむなく居酒屋を始めますが、それも成功せず、1677年貧困のうちに世を去っています。
画家としての技量は、冬景色、川や運河の眺め、赤々とした光に染まる建築などに十分発揮されたのですが、当時こういう風景画はあまり評価されなかった。
月光や夕日の効果を生かし、メランコリックな詩情を湛える彼の絵画が注目されるようになったのは、ターナーやフリードリヒの風景画が大きな共感を呼ぶようになった19世紀ロマン主義の時代でした。
レンブラントがキリストを描いた小品もありました。