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美術館訪問記 - 685 ハーグ市立美術館、Den Haag

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ハーグ市立美術館外観

添付2:ハーグ市立美術館内部

添付3:モンドリアン作
「アムステルダムのシンゲル運河」1983年

添付4:モンドリアン作
「祈り」1908年

添付5:モンドリアン作
「陽の当たる家」1909年

添付6:モンドリアン作
「赤と黄、黒、青色のあるコンポジション」1921年

添付7:モンドリアン作
「ヴィクトリー・ブギウギ」1944年

添付8:ヘオルヘ・ヘンドリック・ブレイトネル作
「赤い着物の少女」

添付9:ゴッホ作
「自画像」

添付10:エゴン・シーレ作
「エディース(画家の妻)の肖像」

ハーグ市の北外れ、スヘフェニンゲンの近くに「ハーグ市立美術館」があります。

1935年開館したアールデコ調の建物は、立方体をきれいに積み重ねたような形です。 この特徴的なデザインは、オランダの近代建築家ヘンドリク・ベルラーヘの 最後の作品です。大きな窓から降り注ぐたっぷりの日の光によって、 館内は展示品を鑑賞するのに最適な環境となっています。

この美術館はオランダの生んだ偉大な抽象画家、ピエト・モンドリアンの 世界最大のコレクションを誇ります。 私が最後に訪れた2022年10月には25作品が展示されていました。

モンドリアンは本名ピーテル・コルネーリス・モンドリアーンで1872年生まれ。 オランダの美術館では決まってモンドリアーンと表示されています。

彼は1892年から3年間、アムステルダム国立美術アカデミーにおいて伝統的な 美術教育を受け、この頃から線描よりも色彩を重視する傾向が作風に現れています。

1911年、アムステルダムの美術展でキュビスムの作品に接して深い感銘を受け、 国際的に通用するよう名前をピエト・モンドリアンと改め、 1911年末から1914年までパリに滞在し、ピカソやブラックが提唱するキュビスム の理論に従って事物の平面的・幾何学的な形態への還元に取り組みます。

モンドリアン曰く「キュビスムは自らの発見がもたらす論理的帰結を 受け止めていないことが、徐々にわかってきた。つまりキュビスムが展開する 抽象化は、その究極の目標である、純粋なリアリティの表現へと 向かっていないと思うようになった」。

抽象表現の実験を重ねる内、次第にモンドリアンの絵は黒い上下左右の直線と、 その線に囲まれた様々な大きさの青・赤・黄の三色に限定された 四角形の色面から構成されるようになって行きました。

こうして1921年、モンドリアンの代表作である、水平・垂直の直線と 三原色から成る「コンポジション」の作風が確立されるのです。

絵を平面として捉え、額縁を取り除き、何かの描写ではない 一つのそれ自体として完成された表現としての絵を追求したモンドリアンは 絵画の概念を変えたとも言え、その後の芸術に多大な影響を及ぼしています。

展示中のモンドリアン作品の最初期のものは「アムステルダムのシンゲル運河」。 アムステルダム国立美術アカデミーで勉強中の風景画。

印象派の影響を受けた「祈り」やポスト印象派風の「陽の当たる家」などを経て 「赤と黄、黒、青色のあるコンポジション」へ至るのです。

モンドリアンは1940年、第二次世界大戦を避けてニューヨークに移住します。 アメリカで初めて聴いたブギウギに触発されて描かれた「ヴィクトリー・ブギウギ」 を未完のまま遺作として、風邪をこじらせて肺炎となり、1944年死亡。

第680回で触れたヘオルヘ・ヘンドリック・ブレイトネルの 着物姿の女性像、「赤い着物の少女」がここにもありました。

ゴッホも2点ありますが、まだ狂気を発する前の1887年の自画像を添付します。

オランダの美術館ではここだけにしかないエゴン・シーレの作品もありました。 1915年、新婚ほやほやの妻を描いたもので、青春の虚無といらだちや生と死を 見つめる尖った絵の多いシーレも、ここでは平凡な愛妻家の面を晒しています。