アムステルダム国立美術館の中に入ると、一段と低くなっており、3階まで吹き抜けのゆったりとした解放的空間が広がります。壁にずらっと窓の外枠があるのは、エントランス部分が最初は中庭だったためです。
添付写真は画面の左右にある階段を上った所にあるカフェ・レストランから撮ったもので、こことエントランス部分は無料で入場できます。写真奥の矩形の通路が展示室への入口になっています。
前回は美術愛好家なら誰でも知っているような画家たちを採り上げましたが、今回はそれよりも少し知名度が低いオランダの画家たちを観ることにしましょう。
前回最後に触れた「マグダラのマリア」のオランダ画家版がありました。
もっとも作者のヤン・ファン・スコーレルはイタリア美術に多大な影響を受けており、イタリア・ルネサンスをオランダへ紹介した重要人物なのです。
スコーレルはアムステルダムの北、40kmにあるスコールル出身で、20代前半にヨーロッパ諸国を旅して、ニュルンベルクでデューラーに会い、その影響を受け、その後ヴェネツィア滞在中にジョルジョーネ作品から大きな影響を受けます。
その後、聖地エルサレムへ巡礼。聖地での体験が後の作品の多くに描かれています。1522年、オランダ出身のローマ教皇ハドリアヌス6世にローマに招聘され、教皇庁の画家に任命され、教皇の肖像画も描いています。
スコーレルはミケランジェロとラファエロの影響を受け、ラファエロを継いでベルヴェデーレの中庭の教皇コレクションの管理人になっています。1524年にオランダに帰国し、画家・教師として成功を収めました。
1495年生まれのスコーレルは1562年ユトレヒトで亡くなりました。オランダで盛んになる群像肖像画を初めて描いた画家とも言われます。
マグダラのマリアはキリスト磔刑後、南仏のマルセイユ近くのサント=ボームの洞窟で30年間程、隠者として暮らしたとされます。スコーレルの絵はこの頃のマリアで、彼女の属性の香油壺を持っています。
レンブラントと同じライデン生まれのルーカス・ファン・レイデン(ライデンとも)の三連画「金の雄牛のまわりでのダンス」がありました。
ルーカスはレンブラントより110年以上前の1494年の生まれで、オランダ・ルネサンスを代表する画家、版画家です。
12歳で彼の作品に買い手がついたという早熟の天才ですが、更に腕を伸ばすために各地を旅しており、ヤン・ホッサールトを訪れ彼と二人旅をしたり、アントワープにいた1521年にはニュルンベルクから来ていたデューラーと2週間行動を共にし、版画作品を交換したりしています。
この時ルーカスを描いたデューラーのスケッチを添付しましょう。
ルーカスは1533年病死したこともあり、残存絵画は僅かに20点余りにしか過ぎません。版画は200点以上残っています。
この三連画は旧約聖書中の挿話で、モーゼがシナイ山で神から十戒を授けられている間に、イスラエルの民は偶像である金の雄牛を造り、祭りに狂じていた。山から下りて来たモーゼはこれを見て怒りに燃える。この瞬間をパネル三枚に連なる風景の中に現実的に描き上げているのです。
この作品により、ルーカスはオランダにおけるルネサンスの道を切り拓いたのです。
三連画の丁度100年後に描かれた「女羊飼い」には少しドキリとさせられました。作者のパウルス・モレールスはユトレヒトの生まれで、イタリアで修業後1596年にはユトレヒトで工房を構え、1611年には新しく画家の組合を設立し、理事になっている有力画家です。肖像画を多く残しています。
アムステルダム国立美術館には近代絵画も勿論展示されています。
オランダの誇るゴッホとイサーク・イスラエルスの作品を添付しましょう。
イサーク・イスラエルスは1865年アムステルダムの生まれで、ハーグ派の代表的画家だった父親のヨゼフの下で修業後、1904年にパリに移住し、モンマルトル近くにスタジオを構え、近くに住んでいたロートレックと親しくなっています。
第一世界大戦でオランダに戻り、オランダを代表する印象派の一人として活躍しました。1928年アムステルダム・オリンピックの芸術競技の絵画部門で金メダルを受賞した事でも有名です。1934年没。
あまり知られていない事ですが、1912年から1948年まで芸術部門がオリンピック種目に含まれていました。テーマはスポーツ関連に限られていましたが。
館内には美麗なステンドグラスも設置され、世界で一番美しい図書館とも言われる図書館も内蔵しています。