前回のオステンドから南西に24㎞程海岸線を下っていくとシント=イデスバルトという人口3千人余りの村があり、ここにあるのが「デルヴォー美術館」。
デルヴォーも何度も名前を出しながらまだ説明していませんでした。
ポール・デルヴォーは1897年、ベルギーの裕福な家庭に第一子として生まれます。父親は弁護士、母親は音楽家で大変厳しく、かつ、彼を溺愛し、束縛しました。
1920年ブリュッセル美術アカデミーに入学。初期は新印象派と表現主義の様式で描いていましたが、その後キリコやマグリットに影響を受け、マグリットと二人展を開いたり、シュルレアリスム運動に積極的に加わって行くようになります。
しかし、デルヴォーをシュルレアリスムの画家と呼ぶには多少無理があります。どの時代に作られた彼の作品にも、抒情的な詩情が溢れているからです。
デルヴォーは32歳の時に愛称タムという女性に出会い恋に落ちますが、母親に猛反対されて別れてしまいます。そのショックで同じ顔をした若い女性の裸婦像(タム)ばかりを描くようになったといわれています。
母親が死去した4年後、40歳の時に別の女性と結婚しますが、その後もタムの面影を追ってタムの肖像を描き続けました。
デルヴォーは「私の絵の中で描かれる女性たちは、女神であり、ミューズなのです」と語っています。タムは生涯デルヴォーの女神でありミューズだったのです。
1947年、たまたま訪れた避暑地でデルヴォーは、かつての恋人タムと偶然の再会を果たします。その時、デルヴォーは50歳。18年ぶりの再会でした。
二人はその後文通を重ね、密会するようになりました。デルヴォーは離婚し55歳の時にタムと再婚しました。二人は一緒に暮らしましたが1989年にタムが先立つと、デルヴォーは絵を描くのを止め、5年後に亡くなりました。
この美術館はデルヴォーが生存中に自分の個人美術館とするために村の高級住宅街に購入した家屋を改修・増築して1982年開館しています。
館内にはほぼ年代順に80点の油彩画と多数の素描、水彩画が展示され、さらに列車模型や骸骨など彼の収集品も展示され、彼の生涯を概観することができます。
鉄道愛好家だったデルヴォーに合わせて、館内のベンチも鉄道車両の木製のベンチになっていますし、館内のイメージも駅構内という感じです。凝った内装です。
ほとんど観ることのないデルヴォーの初期作品から年代順に採り上げましょう。ただし全ての作品が地下展示室に展示されており、照明が十分でないため私のカメラでは明瞭な画像が撮れていないことをお断りしておきます。
初期の印象派風の「森の小径」からコンスタン・ペルメークと見紛うような表現主義の「若い裸婦」へと変化し、「タムの肖像」でそこから抜け出し、「浜辺の裸婦」でタムと別れた後の見慣れたデルヴォーのスタイルに変貌します。
この頃から作品はよく売れ出したのでしょう、彼の手元にはほとんど残っていないようで、制作年代は飛び飛びとなり展示作品も少なくなります。
「パレード」もそうですが、デルヴォーの描く裸婦は、紙人形のようで、性格も実態もなく、奥行きを強調した画面と、風景や建物の、舞台の書割のような嘘っぽさも夢の中のような幻想を生む効果を挙げています。
不可解で、寂しく、それでいて懐かしいような雰囲気が醸し出されているのです。
幼少のころからずっとジュール・べルヌ作「地球の中心の旅」を愛読していたデルヴォーは、その主人公である生真面目な学者オットー・リーデンブロックをしばしば絵の中で描き、裸女たちと対照させています。
「ジュール・ヴェルヌへのオマージュ」では画面左側で何か顕微鏡のようなものを手に持ち、のぞき見している男性がオットー博士です。
デルヴォー曰く「私の作品に出てくる学者、いつも何かを見つめている、あれはジュール・ベルヌ作「地球の中心への旅」の挿絵をそのままコピーしたものです」
1986年に描かれた89歳のデルヴォー最後の油彩画「カリュプソー」もありました。カリュプソーはギリシア神話に登場する海の女神です。最後まで女神像は記憶の中のタムなのでした。
(添付4:デルヴォー作「森の小径」1921年、添付5:デルヴォー作「若い裸婦」1930年、添付6:デルヴォー作「タムの肖像」1931年頃 、添付7:デルヴォー作「浜辺の裸婦」1934年、添付8:デルヴォー作「パレード」1963年、添付9:デルヴォー作「ジュール・ヴェルヌへのオマージュ」1971年および添付10:デルヴォー作「カリュプソー」1986年は著作権上の理由により割愛しました。
長野さんから直接メール配信を希望される方は、トップページ右上の「メール配信登録」をご利用下さい。管理人)