次の町はオステンド。第145回のジェームズ・アンソールの家のある観光地です。
この町の中心、市役所から2ブロック西にあるのが「ミュ・ゼー」。
世界唯一、1880年以降のベルギー美術に特化した美術館で、それまであった州立近代美術館とオステンド美術館を統合して2008年に開館しました。ミュ・ゼーとはオランダ語で「海辺の美術館」という意味の省略語です。
これまで採り上げて来たベルギーの近代画家ジェームズ・アンソールやコンスタン・ペルメーク、エミール・クラウス、コンスタン・ムーニエ、デルヴォーなどが勢揃いしていますが、説明していなかった二人に絞りましょう。
一人はアルフレッド・ステヴァンス。前々回名前と作品のみ出して説明を省略した画家です。
アルフレッド・ステヴァンスは1823年ブリュッセル生まれ。父は軍人で美術収集家。1840年からブリュッセル王立美術アカデミーで学んだ後、1844年にパリに出て、マネやテオドール・ルソーらと親交を結び、1853年のサロンでは3作が入選します。
1858年裕福なベルギー人の娘とパリで結婚。式の証人はドラクロワが務めています。1860年代には上流階級の女性の優美な肖像画で人気作家となり、作品が高値で取引されるようになります。1863年にレジオンドヌール勲章を受勲。
添付の「ピンクの服の女性」のように高価な家具を小道具として、最新のファッションに身を包んだ富裕層の女性の肖像画を数多く描きました。
「着物姿のパリジェンヌ」もそうですが、この絵も主人公に日本人形を持たせ、当時パリを席巻していたジャポニスムを反映させています。
1906年、パリの自宅で4人の子供たちに看取られながら死去。
日本では知名度は低いですが、フランスやベルギーでは人気のある画家で、パリ、モンマルトルには彼の名前がついた通りもあるほど。
アルファベットでは同名のイギリス人画家・彫刻家アルフレッド・スティーヴンスAlfred Stevens(1817-1875)と混同しないように注意が必要です。
二人目の画家はレオン・スピリアールト。20世紀初のベルギーでいかなる流派にも属さず、独自の創作活動を行った画家です。
彼は1881年オステンドの生まれで、ブリュージュとブリュッセルで短い間生活した時期を除いて、30代半ばまでの大半をオステンドの町で過ごしています。
18歳でブリュージュ美術学校に入学しますが、わずか数カ月で退学。その後はまったく独習で絵画制作を行っています。
したがって、彼の芸術はオステンドの町と海に育まれたといってもよいでしょう。スピリアールトは、墨、水彩、色鉛筆、パステルなどを駆使しながら、紙の上に故郷オステンドの風景や室内、人物などからなる世界を展開しました。
その特徴を一言で言えば、ごく平凡な日常風景に自らの孤独や不安を投影し、それを神秘的なものに変貌させるというところにあるでしょう。
1908年制作の彼の代表作「めまい」も、オステンドの堤防から砂浜におりる平凡な階段を、砂漠にあらわれた螺旋状の階段のような、なんとも不思議な舞台に変貌させ、その堤防を、不安と謎に満ちた世界への通路にしてしまっています。
その階段に座り、強い風にショールをたなびかせながら物思うかの女性の足先から長く伸びる影が彼女の孤独を表しているようでもあります。
彼の作品は見るものを不安にさせると同時にとりこにする、謎めいた魅力に満ちていますが、彼の最盛期は自身が孤独と不安にさいなまれていた1916年までで、その年末、若い女性と結婚し、翌年娘が生まれると、独創性は陰りを見せ始めます。
ただ象徴主義の画家の常でしょうか、ムンクやアンソールもそうであったように、最盛期を過ぎたころから逆に評価は高まり、1922年にはブリュッセルで初の大々的な個展を催しています。1946年にブリュッセルで没。
彼の生まれ育った地にあるこの美術館は彼の作品を180点以上所蔵しています。
(添付4:デルヴォー作「オステンドのカジノのフレスコ画のための習作」は著作権上の理由により割愛しました。
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