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美術館訪問記 - 666 ベルギー王立美術館:ムーニエ美術館、Bruxelles

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:クールベ作
「石割人夫」
第二次世界大戦で焼失

添付2:ムーニエ美術館正面

添付3:ムーニエ作
「鉱夫たちの帰還」

添付4:ムーニエ作
「壊れた坩堝」

添付5:ムーニエ作
「幼いリンゴ泥棒たち」

添付6:ムーニエ美術館内通路

添付7:ムーニエ作
「鍛錬工」

添付8:ムーニエ美術館内アトリエ

添付9:ムーニエ作
「精錬工」

添付10:ムーニエ作
「鉱夫」

ブリュッセルの南、郊外にイクセルという自治体があり、そこにあるのが「ムーニエ美術館」。

19世紀のベルギーを代表する彫刻家、画家のコンスタン・ムーニエの住宅兼アトリエだったものをベルギー政府が購入し1939年美術館として開館。

コンスタン・ムーニエは1831年ブリュッセル近郊の貧しい家に生まれ、4歳の時に父親が生活苦で自殺しています。14歳でブリュッセル美術アカデミーに入り彫刻を学びます。

20歳の時にクールベの「石割人夫」を観て、自身が最大の関心を寄せている現代の社会的、芸術的問題を表現するには彫刻よりも絵画の方が適切と悟り、以後33年間、絵画に専念します。

クールベ同様レアリスムの画家として鉱夫や造船夫、樵など様々な産業労働者の過酷な労働状況を畏敬の念で描き、彼らの姿を現代のアイコンに高めたのです。

ゴッホは弟のテオ宛の手紙に「ブリュッセルの展覧会でムーニエの鉄鉱労働者の絵を観た。彼はベルギー最大の芸術家であり、色彩も構成も卓越している。彼は私がいつも成し遂げたいと夢見ている全てを描ききっている」と書いています。

1884年、労働者の過酷な状況を表現するには彫刻の方が向いている事もあると思い直し、彫刻も再開します。1887年ルーヴェン市の美術学校教授となり住居とアトリエも貸与され、重要作品を幾つも制作しています。

退職後ブリュッセルに戻り、アトリエの付きの家を建てますが1905年死去。

彼の死に際し、当時の東京美術学校教授久米敬一郎は「元来十九世紀の技芸家には才識あり機巧に長ずる者多かりしが、創作の能力と着想の奇抜なるとは甚だ欠乏し、就中彫塑に至つては千篇一律の趣向を以て満足したる中に、全く新たなる塑形の美を発見したる二人の技芸家は出でたり。一は仏国のロダンにして一はムーニエなり」と書いています。

このようにムーニエはロダンと並び立つ19世紀彫刻界の巨頭という評価は一般的だったようですが、第二次大戦後日本では忘却されていったようです。

ムーニエ美術館はアベイ通りという大通りに面した瀟洒な4階建て。両側に同様の高さの建物が隙間なく隣接しています。

階段を上がった2階が入口で、ブザーを押すと中年男性が驚いた顔をして扉を開けてくれました。滞在中誰一人訪れることはなかったので訪問者は珍しいのでしょう。

入って直ぐの小部屋には絵画が展示されていました。労働者たちを描いた作品群の中に一点、ムーニエのお孫さんたちを描いた微笑ましい作品もありました。

両側に彫刻が展示された狭い通路に「鍛錬工」と題されたブロンズ像が異彩を放っていました。存在感溢れる作品です。

通路を抜けると広いアトリエに出ます。ここには彫刻が十数点と壁に数点の絵画が飾られていました。

美術館のホームページによると所蔵品は700点を超えているそうですが展示品はムーニエの手紙や彼の展示会のポスターなども含めて150点ほどとか。展示場は2階だけですから残りの階は保管用に使われているのでしょう。