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美術館訪問記 - 665 ベルギー王立美術館:ヴィールツ美術館、Bruxelles

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ヴィールツ美術館入口

添付2:ヴィールツ作
「パトロクロスの遺体を争うギリシャ軍とトロイ軍」

添付3:ヴィールツ美術館内部

添付4:ヴィールツ美術館内部

添付5:ヴィールツ作
「18歳の自画像」 1824年

添付6:ヴィールツ作
「麗しのロジーヌ」 1847年

添付7:ヴィールツ作
「飢餓、狂気、犯罪」1853年

添付8:ヴィールツ作
「自画像」 1855年

添付9:ヴィールツ作
「光の勝利」 1862年
写真:Creative Commons

ベルギー王立美術館から南東に1300m程の場所にあるのが「ヴィールツ美術館」。

19世紀のベルギー象徴主義の先駆者的画家アントワーヌ・ヴィールツの自宅兼スタジオをそのまま美術館にするという画家自身のアイデアに基づいて国と契約が取り交わされ建設された美術館です。

アントワーヌ・ヴィールツは1806年フランス国境に近いディナンの陸軍准将の家の生まれで幼少時から素描や木彫に非凡な才を発揮していました。

弱冠14歳でアントワープ王立芸術学院に入学。以後はオランダ王ウィレム1世から得た奨学金で学業を続け、1829年から1832年の間、パリに留学し、ルーヴル美術館でルーベンスやジャック=ルイ・ダヴィッドなどの巨匠作品を模写。

1828年と1832年にローマ賞で2位となり、資格を得て1834年から1837年の間、ローマ・フランス・アカデミーに留学し更なる修行を積んでいます。

ローマ滞在中の1836年、歴史画の大作、「パトロクロスの遺体を争うギリシャ軍とトロイ軍」を発表。「この若者こそが巨人である」との賛辞を受け、1837年にアントワープでもで展示して高い評価を得ています。

これはトロイ戦争でギリシャの将パトロクロスは戦友アキレスの鎧を身に着け、トロイの将ヘクトールに一騎打ちを挑むのですが、あえなく破れ、その死体を奪い合うトロイとギリシャの戦士を流動的に描いたものです。

パトロクロスの亡骸をⅩの中心に置く構図で、彼の四肢を掴み取ろうとしている兵士たちは躍動感に溢れています。

ベルギー帰国後はリエージュで活動後、1845年ブリュッセルに移住。

1831年にオランダから独立したばかりのベルギー政府は、ヴィールツをベルギーの顔として後援し、大作を注文してくれていたのですが、ヴィールツは大作を描くにはそれ相応のスタディオが必要だと説き、政府に巨大なアトリエを彼の死後美術館にするという約束で造成してもらいます。

1865年この地で死去。契約通り残された絵画、彫刻、素描類は全て国家のものとなり、1868年王立美術館として開館しました。

美術館に入って驚きました。日本のどの学校にもこれだけ広い体育館はないのではないかと思わさられる巨大さ。これがアトリエだったとは。

その巨大な壁をも埋め尽くすような大作が幾つも並べられた下に普通サイズの作品も展示されていました。画家は「肖像画はパンのために、宗教画や歴史画は名誉のために描く」と語っていたといいますが、現在ではパンのために描いた作品の方が寧ろ評価されているようです。

それらを「18歳の自画像」から年代順に観てみましょう。

「麗しのロジーヌ」は象徴主義画家としてのヴィールツの代表作と目されており、美しい裸婦と骸骨を対照的に並置して描き、生と死、肉と骨は表裏一体であるということを強く訴えかける一枚となっています。

1844年に彼の母親が亡くなったことは、ヴィールツの作品に大きな影響を与え、死や死を超越する美の力といったものが表れて来るようになります。

この絵でも単純な「死を思え(メメント・モリ)」という中世的概念を超え、死を凌駕する生の勝利を骸骨を毅然として見つめるロジーヌの態度で表しています。

「飢餓、狂気、犯罪」は「怖い絵」の一例としても採り上げられる絵ですが、釜の中にみえる子供の足。薄笑いを浮かべた母親の手に握られたナイフ、など我が子を喰らうしかないほどの飢えと母親の狂気を見事に描き出しています。

ヴィールツは彫刻も手掛けたのですが、彼の傑作「光の勝利」を観た人はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって贈呈された「自由の女神像」を思い起こすのではないでしょうか。

「自由の女神像」はフランスの彫刻家フレデリク・バルトルディによって1875年に制作が開始され1886年にニューヨークでの除幕式が行われたのですが、ヴィールツのこの作品の同工異曲と言われても仕方ないでしょう。