近代美術館は、私が最後に訪れた2022年9月時点では、安住の地が確定しておらず、1階の大部屋や古典美術館のある2階の一部屋、世紀末美術館のある建物の地下3階に分散して展示されていました。所蔵品の大多数は所在場所が確定するまでお蔵入りになっています。
「近代美術館」の展示品はジャック=ルイ・ダヴィッドの「マラーの死」から現代まで世紀末美術館とマグリット美術館にあるものを除いた作品です。両館ができるまでは全て世紀末美術館のある建物内に展示されていました。
振り返ってみるとジャック=ルイ・ダヴィッドのような大物の説明を13年もの間していなかった事に我ながら驚きました。
ダヴィッドは1748年、パリに商人の子として生まれ、9歳の時、父親は決闘で亡くなっています。ロココ絵画の大家であるブーシェはダヴィッドの母の従兄弟でした。当時50歳代だったブーシェは弟子を取っておらず、彼の紹介でジョゼフ=マリー・ヴィアンという画家に師事します。
長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を獲得します。これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては遅いデビューでした。
ローマ賞とはルイ14世下の財務大臣コルベールによって1663年に提唱され、絵画、彫刻、後に建築、音楽、版画も加わった各分野から、王立アカデミーの厳しい審査で選ばれた芸術家がローマへ3年から5年間の国費留学を与えられる制度で、フランスでは現在まで新進芸術家の登竜門として機能して来ています。
ダヴィッドは1780年までの約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭します。こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていくのです。
新古典主義とは、18世紀中頃から19世紀はじめ、ロココ様式の後にヨーロッパで主流となった建築・彫刻・絵画などの芸術スタイルです。
その特徴は、ギリシャ、ローマなどの古典芸術を規範とし、調和や統一性を重んじた荘厳な形式美にあります。
新古典主義が広まった背景は3つあります。1つ目は、18世紀半ばの古代遺跡の発掘に端を発したギリシャへの憧れ、2つ目は、18世紀半ばまで隆盛を極めたロココへの倦怠と反感、3つ目は、革命による王制の崩壊とナポレオンの台頭です。
ダヴィッドは美の世界においても、科学上の真理と同じように、人の理性が認める普遍的、絶対的な「理想の美」が存在すると信じました。
歴史上でその「理想の美」を最も完全な形で実現したのは古代のギリシャ人たちでした。このようにして古代ギリシャ芸術を絶対の規範とする新古典主義の美学が生まれてくることになったのです。
1789年、フランス革命が勃発すると、ダヴィッドはバスティーユ牢獄襲撃事件に加わり、1792年には国民議会議員にもなっています。1793年には革命家マラーの死を描いた「マラーの死」を制作しています。
フランス革命の急進派の指導者であったジャン=ポール・マラーは、皮膚病を患っており、治療のためオートミールを浸した浴槽に入り仕事をしていました。
そこへ、下級貴族出身でマラーと対立していたジロンド派の支持者シャルロット・コルデーという女性が、マラーの支持者と偽りやって来ます。
自分は貧しく不幸な女だと訴える彼女の話を、庶民の味方マラーは真剣に聞き、ふとした隙に、彼はナイフで刺し殺されてしまいます。コルデーは現行犯逮捕され、4日後にギロチンにより刑死しました。
この事件から3ヶ月後に公開されたのが、ダヴィッドの描いたこの作品です。
ダヴィッドによるマラーの描写は、肖像画というよりもプロパガンダでした。彼はマラーを殉死した英雄のイメージに合わせて、その容姿を変えました。
肌から皮膚病やシミ、汚れを取り除き、実年齢50歳よりも若く見せました。ミケランジェロの「ピエタ」の死せるキリストの姿を思わせるポーズにしてマラーをキリストになぞらえることで、その死が殉教であると強調し、マラーを神格化しようとしています。
ダヴィッドは一時期国民公会議長も努めますが、ロベスピエールの失脚に伴い、一時投獄され、その後、ナポレオン・ボナパルトの庇護を受けて復活します。
1804年にはナポレオンの首席画家に任命されています。ナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたも失脚し、1816年にブリュッセルへ亡命し、9年後の1825年に同地で時代に翻弄された77年の生涯を終えます。
フランソワ・ジェラール、アントワーヌ=ジャン・グロ、そしてアングルなど後の新古典主義を担う若い弟子を数多く育てたのは彼の功績でした。
今回はジャック=ルイ・ダヴィッドに思いの外紙数を費やしました。この美術館にある彼の作品と彼の代表作数点を添付して終わりとしましょう。