ルーベンス・ハウスの北約300mの場所には「聖ヤコブ教会」があります。
15世紀から17世紀にかけて建てられたゴシック様式の教会で、ルーベンスとその家族のお墓があることでも知られており「ルーベンスの礼拝堂」と呼ばれることもあります。
1600年、23歳で宮廷画家としてイタリアに渡っていたルーベンスはヴェネツィアやローマを訪れる機会を得、 ルネサンスの名画やローマ時代の古代彫刻を熱心に観察、模写して 多くのものを学びました。
しかし母親の死を契機に1608年アントワープへ帰郷。
イタリアでの経験を活かしたルーベンスの作品は評判を呼び、たちまち多くの注文が殺到したのです。
ルーベンスは画家であっただけでなく、外交官としても活躍し、当時フランドルを支配していたスペインばかりでなく、イギリス、フランス、ネーデルランド等の宮廷を訪れ、何処でも賓客として遇されました。
ピーテル・パウル・ルーベンスは「王の画家にして画家の王」とも呼ばれました。
彼の住んだアントワープの多くの教会が18世紀のフランス革命の騒乱の影響で何らかの損害や強奪を受けていますが、この教会は神父がフランス王権に抵抗した功績を革命派から認められて、無傷で乗り越えることに成功しています。
おかげで17-18世紀の内装を保持する貴重な存在となっています。残念ながらステンドグラスは第二次大戦中の空襲で被害にあってしまいましたが。
教会内は三廊式のバロック様式で、太い柱と柱頭装飾で構成されるアーチが続く側廊、天井、壁も白色に統一され、堂々たる構えです。
主祭壇の裏側にはルーベンスの死後5年かけて妻エレーヌが建造した、ルーベンス家礼拝堂があり、ルーベンスの遺体も妻と共にここに埋葬されています。
祭壇画の上に聖母マリアが剣を胸に刺している白い大理石像がありますが、これはマリアの苦しみ、悩みを表すフランドル特有の表現です。
祭壇の中央を占めるルーベンス作「聖人達に囲まれた聖母マリア」は、1640年、ルーベンスが死の数日前に墓に飾るよう申し渡したものです。
聖母マリアとその胸に抱かれる幼子イエスを中心に、聖ヒエロニムスや聖ゲオルギウス、マグダラのマリア、など諸聖人や美しい女性たち数人を配した「聖会話」の図像が用いられています。
ルーベンスがこれらの諸聖人や女性たちを自分の墓所を飾る絵として選ぶにはそれなりの確たる根拠と意図があったはずですが、残念ながらそれらについて書き残されたものはなく、謎のまま残されています。
教会内にはルーベンスから最良の弟子と呼ばれたアンソニー・ヴァン・ダイクの祭壇画「キリスト磔刑」と「聖ゲオルギウスと龍」がありました。
二人共聖ゲオルギウスを描いているのはこの教会との繋がりを思わせます。
ヴァン・ダイクはチャールズ1世の招きでイギリスへ移住し、ルーベンスも死去した後のアントワープを牛耳ったヨルダーンスの「ペスト患者のために祈る聖カロルス・ボロメウス」もあります。
ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)はアントワープの生まれで、ルーベンスの師でもあったアダム・ファン・ノールトの下で 8年間修業し、16歳年上の兄弟子ルーベンスと共同作業をした事もあります。
ただルーベンスやヴァン・ダイクとは異なり、海外に出ることなく生涯を生地で過しています。
1765年、当時9歳で音楽の神童と呼ばれていたアマデウス・モーツアルトが、父レオポルトと共にこの教会を訪れて、ルーベンスの墓に参拝した逸話もあります。
戦災後新しく制作されたステンドグラスも鮮やかな色どりを添えていました。