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美術館訪問記-65 スポレート大聖堂

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

添付1:フィリッポ・リッピ作
「聖母子と2天使」
ウフィツィ美術館蔵

添付2:スポレート大聖堂と広場

添付3:スポレート大聖堂入口

添付4:スポレート大聖堂主祭壇

添付5:フィリッポ・リッピと工房作
「聖母の戴冠」

添付6:フィリッポ・リッピと工房作
「受胎告知のマリア」

添付7:フィリッポ・リッピと工房作
「聖母の死」部分図
中央の黒頭巾の男はフィリッポ・リッピの自画像、
その下の天使はフィリッピーノ・リッピと伝わる

フィリッポ・リッピ(1406−1469)はフィレンツェ生まれの画家ですが、 多士済々のルネサンス期の画家達の中でも華麗な逸話に彩られています。

幼くして孤児になった彼は近くにあったカルミネ修道院に引き取られ 修道僧になるのですが、僧としての修業はそっちのけで暇さえあれば 絵を描いていたといいます。

カルミネ修道院のブランカッチ礼拝堂にはルネサンスの扉を開けた マザッチョの壁画という格好のお手本がありました。

マザッチョの魂が乗り移ったと評された画風を身に着けたリッピは 数年のパドヴァ滞在でフランドル絵画に触れ、細密で優美な様式へ転換します。

緻密な装飾性、時代の風俗を反映した現実性を兼ね備えた彼は メディチ家の保護を受け、1440年代にはフィレンツェで最も人気のある 画家となっていました。

修道僧でありながら、瑞々しい女性美を描いたリッピは女性との関係も多く、 その最たるものは、フィレンツェの隣町、プラートの大聖堂の壁画制作の 途中に起こりました。

1456年プラートの女子修道院の修道女ルクレツィア・ブーティに恋して、 駆け落ちをしてしまうのです。 50歳のリッピに対しルクレツィアは23歳。

いかに人間再生のルネサンスの時代とはいえ、司祭と修道女の駆け落ちは 問題になり、リッピは司祭の職を解かれ、修道院への出入り禁止となります。 しかしリッピを庇護したメディチ家の当主コジモの取り成しで、 法王ピウス2世は2人の還俗と結婚を許可します。

2人の間には子供も生まれ、長男のフィリッピーノ・リッピは優れた画家に 成長します。 ルクレツィアとフィリッピーノをモデルとして描かれたというのが、 ウフィツィ美術館にある「聖母子と2天使」。

それまでの宗教画とは判然と異なる人間性を帯びた聖母子と天使の登場です。 聖母マリアは絶世の美女といわれたルクレツィアそのもので、 当時のファッションに従って、前髪を抜いて額を広く見せ、 その広々とした額に真珠の髪飾りを着けています。

こまかく波打つ黄金の髪、薄いベールや衣服の質感を見事に捉えた 流麗繊細な線描と色彩、憂いを秘めた魅惑的な女性の表情、峻厳な写実的背景。 まさにルネサンスを代表する名画です。

かのレオナルド・ダ・ヴィンチがモナリザを描くにあたり、 この絵を参考にしたというのも頷けます。

そのリッピの遺作となった大壁画が、イタリア半島の中心点に近いスポレートの 大聖堂にあります。

1467年リッピは妻子と工房の弟子達と共に、スポレートへ移り住み、 「スポレート大聖堂」の主祭壇壁面と天井を飾る 「聖母マリアの生涯」の大フレスコ画を制作中に病に倒れ、死去。

スポレート町民はこの偉大な画家をこの大聖堂に葬る事を主張し、 時のメディチ家の当主ロレンツォが費用を負担して、 大聖堂内にリッピのモニュメントが造られています。

制作途中の壁画は、天井画の「聖母の戴冠」は息子のフィリッピーノ・リッピが、 壁画部分は弟子のフラ・ディアマンテが後を引き継ぎ完成させたとされています。

狭い街中の坂道を上った所に城跡があり、 そこから少し下ると、大聖堂前の広場に出ます。 中世の雰囲気をそのままに残す佇まい。

大聖堂のファサードの5つのアーチ、8つの幾何学模様のバラ窓、 金色に輝くモザイクも、中世の名残を見せ風情があります。

主祭壇を飾る大壁画は修復されたのでしょう、色鮮やかに輝いていて、 特に「聖母の戴冠」は一際眼に滲みるようです。 その下の壁には中央に「マリアの死」その左に「受胎告知」、 右に「キリスト生誕」があります。

受胎告知のマリアは若き日のルクレツィアの面影を彷彿とさせるものでした。

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