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美術館訪問記 - 564 オズヴァルド・リチーニ現代美術館、Ascoli Piceno

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ポポロ広場

添付2:マラスピーナ館外観

添付3:マラスピーナ館回廊

添付4:オズヴァルド・リチーニ現代美術館内部

添付8:アスコリ・ピチェーナの風景

アスコリ・ピチェーノのアリンゴ広場から北西に100mも行くと この街のもう一つの中心ポポロ広場があります。

アリンゴ広場が政治と宗教、文化の中心なら、 ポポロ広場はレストランや商店の密集した娯楽の中心と言えるでしょう。

ポポロ広場から北西100m程の所にあるのが「オズヴァルド・リチーニ現代美術館」。

16世紀に建てられた見事な回廊を持つマラスピーナ館の2階にある美術館で 1999年開館。前身は1964年設立の「市立現代美術館」でした。

目立った表示もなく、住所を頼りに見つけ、中に入り階段を上がると、 そこに受付がありました。 入館すると壁に大きなオズヴァルド・リチーニの写真が貼られていました。

名の知れた画家はフィリッポ・デ・ピシスとルーチョ・フォンタナ、 ジョルジョ・モランディが1点ずつあっただけで、 地元の出身者オズヴァルド・リチーニの作品が大多数を占めていました。

私はオズヴァルド・リチーニをこの美術館で初認識したのですが、 彼は1958年のヴェネツィア・ビエンナーレで国際大賞を受賞した著名画家で、 その年に64歳で死亡しています。

オズヴァルド・リチーニは1894年マルケ州モンテ・ヴィドーン・コッラードという アスコリ・ピチェーノの北30㎞程の寒村の生まれですが、 彼の誕生直後に両親は仕事の都合でパリに移住。

オズヴァルドは父方の祖父に育てられ、14歳でボローニャに出て美術学校に入学。 ジョルジョ・モランディは級友でした。

20歳でモランディらと初の展覧会を開きますが、21歳で第一次大戦に参戦。 足を負傷して、以後生涯びっこを引くようになります。

1917年、すでに父親は死亡していましたが、母親と妹のいるパリに出て ピカソ、コクトー、キスリング、モディリアーニなどと交友。

彼の作品のコレクターもつくようになり、以後イタリアとパリを往復しながら サロン・ドートンヌやアンデパンダン展などに出品を続けます。

1930年には初の抽象絵画を描き、1935年にはミラノで初の個展を開催。 その後パリでカンディンスキーやクプカたちと交友。

1946年には住んでいたモンテ・ヴィドーン・コッラードの村長に選ばれ、 2期、10年間務めています。

勿論画業は続けており、様々な展覧会に出展し続け、 1958年のヴェネツィア・ビエンナーレは特別に個室を与えられ43点を出品。 見事国際大賞を射止め、息子と一緒に6月に開催された授与式に参加。

国際的な名声を得てこれからという時に、この年の11月、生まれ故郷の自宅で死去。

この美術館はオズヴァルド・リチーニの妻の養女カテリーナ・ヘルストロームから 購入した80点余りのオズヴァルド・リチーニ作品を所有しています。

なお、この美術館は私たちが訪れた2006年は館内撮影禁止で、 館内写真や展示作品は美術館のホーム・ページから借用しました。 残念ながらデ・ピシスやフォンタナ、モランディの作品は見つかりませんでした。

マラスピーナ館の2階からアスコリ・ピチェーナの街並みと背後の山が見えました。



(添付5:オズヴァルド・リチーニ作「自画像」、添付6:オズヴァルド・リチーニ作「女性の肖像」 および 添付7:オズヴァルド・リチーニ作「赤の反逆天使」は著作権上の理由により割愛しました。
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