戻る

美術館訪問記 - 562 アスコリ・ピチェーノ市立美術館、Ascoli Piceno

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:アリンゴ広場

添付2:アスコリ・ピチェーノ市立美術館入り口

添付3:アスコリ・ピチェーノ市立美術館内部

添付4:カルロ・クリヴェッリ作
祭壇画「聖母子と聖人たち」

添付5:カルロ・クリヴェッリ作
多翼祭壇画 アスコリ・ピチェーノ大聖堂蔵

添付6:ピエトロ・アレマンノ作
多翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」

添付7:上記部分図

添付8:ピエトロ・アレマンノ作
多翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」

添付9:グイド・レーニ作
「受胎告知」

添付10:アリンゴ広場の噴水

今週初め無事帰国しました。

コロナ禍のため3年振りの海外旅行でしたが、オランダ、ベルギーの訪れる価値ある美術館、全てとドイツ、フランスのごく一部の美術館を巡ってきました。

日本と機内でのマスク着用を余儀なくされた以外は全く変化はありませんでした。つまり、ヨーロッパは、少なくとも滞在した4か国では、完全に以前の生活に戻っていました。

もっともインフレーションは進行していて、特にガソリン価格はどこも1リットル2€前後で円安を考慮すると日本の2倍近い。

それにもかかわらず、車は道路に溢れ、市民は路上に溢れ、どこも活気に満ちていました。

従来通り、2, 3の著名美術館以外は美術館はどこも閑古鳥でしたが。

全くフリーな欧州内での行き来に比べ、日本の空港での多くのスタッフを動員した無駄としか思えないコロナ関連の様々な入国手続きにうんざりしながら、彼我の差がどこにあるのか考えさせられた旅でもありました。

*****

次の市はアスコリ・ピチェーノ。マルケ州の最も南に位置する、古代ローマ以前に存在した民族「ピチェーノ人」によって建設された歴史ある街です。

この町の中心アリンゴ広場に面した市庁舎の2,3階を占める美術館が「アスコリ・ピチェーノ市立美術館」。

添付のアリンゴ広場の写真の左奥に見えるのが第56回で紹介した大聖堂、右側の3階建ての建物が市立美術館の入る市庁舎。大聖堂と市庁舎の継ぎ目の少し低い建物が次回の「司教美術館」。

見るからに歴史のありそうな市庁舎の建物は、1183年にアスコリ・ピチェーノが自治都市になった時に建てられた宮殿を核として、1745年までに完成。美術館はイタリアがまがりなりにも統一国家になった1861年、開館しています。

入り口も展示室も昔の宮殿の名残を留めています。

美しい外観や内装に比べて、悲しいほどボロボロになったカルロ・クリヴェッリの「聖母子と聖人たち」の祭壇画がありました。

アスコリ・ピチェーノのとある教会の持ち物だったそうですが、これだけ傷んだ作品を堂々と展示している美術館は珍しい。

直ぐ傍の大聖堂でクリヴェッリの最高傑作と言える完璧な多翼祭壇画を観て来ただけに、それと比べていっそう哀れな感が強まります。

カルロ・クリヴェッリと彼の多翼祭壇画については第56回を参照して下さい。

その近くに一瞬クリヴェッリの作品かと錯覚した別の多翼祭壇画がありました。近づいてよく観ると、クリヴェッリとは似て非なる作風で、クリヴェッリの高貴なエロティシズムは片々も感じられません。

作者はピエトロ・アレマンノ。本名ピエトロ・グリル。クリヴェッリと同じく1430年頃、オーストリアの生まれで、アレマンノというのは当時のイタリア語でドイツ人という意味でした。

遅くとも1466年にはマルケ地方に来ており、同地をさすらっていたクリヴェッリに一時期、同行して修業し、クリヴェッリと見紛う画風を身につけます。

1470年頃には、ドイツ出身者が多くいたアスコリ・ピチェーノに落ち着き、同地を中心としたマルケ地方に多くの作品を残しています。この美術館にも全部で9点、展示されていました。

ただ彼の作品は師のクリヴェッリのコピーと言うべきで、構図や色彩に独創性は感じられません。1498年この地で死去。

他にはグイド・レーニ、グエルチーノ、ヴァン・ダイクが各1点ずつ。後は地元の画家たちの作品が新旧取り混ぜて展示されていました。

美術館を出ると、この街の長い歴史を物語るような噴水が目の前にありました。