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美術館訪問記 - 560 サン・ドメニコ教会、Arezzo

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サン・ドメニコ教会正面

添付2:サン・ドメニコ教会内部

添付3:チマブーエ作
「磔刑図」

添付4:チマブーエ作
「荘厳の聖母(マエスタ)」ウフィツィ美術館蔵

添付5:スピネッロ・アレティーノ作
「聖フィリッポと聖ジャコモ・イル・ミノーレの生涯」
写真:Creative Commons

添付6:パッリ・スピネッロ作
「受胎告知」
写真:Creative Commons

前回の国立中世・近代美術館とアレッツォ大聖堂を結んだ線を底辺とする 三角形の北側の頂点に当たる場所にあるのが「サン・ドメニコ教会」。

家々が立て込んだアレッツォの街中で落ち着いた小広場に面して ポツンと建つ、ファサードと一体になった2鐘式の鐘楼が印象的な小さな教会です。 これだけ明らかに左右非対称のファサードも珍しい。

この教会は13世紀初期にアレッツォへやって来たドメニコ修道士たちのために、 教会と同名のサン・ドメニコ広場に面して建立されました。

内部はシンプルな単廊式ですが、壁面にはところどころフレスコ画が残っています。 いずれも14世紀から15世紀の初めに描かれたものです。

主祭壇の上にはチマブーエの青年期の彩色された美しい磔刑図が、 修復されて完全な姿で吊り下がっています。

薄暗い教会内に堂々と配置された十字架像は、若き天才画家の手腕が 存分に発揮されており、13世紀のイタリア絵画を代表する作品の一つで、 この一作を見るためだけでもこの教会に足を運ぶ価値があります。

チマブーエはまだ説明していませんでした。

これまで何度も引き合いに出して来たイタリア史上初の美術史家ヴァザーリの 「芸術家列伝」はチマブーエから始まりミケランジェロで終わっています。

つまり、チマブーエはイタリア美術史の起源とも言える芸術家なのです。

彼の記録は1272年にローマで活躍し、1302年にピサで死亡したというぐらいしか 発見されていないのですが、彼を「神曲」中で「絵画の世界の覇者」と称えた ダンテの記述や、この地やアッシジ、フィレンツェ、ローマ、ピサなどに残された 作品群などを基に、1240年頃フィレンツェの生まれと推測されています。

本名チェンニ・ディ・ペーポ。チマブーエは「雄牛の頭」という意味のあだ名です。 人の批判には耳を貸さぬ頑迷な性格を揶揄したと考えられています。

チマブーエの絵画には、金地の背景、正面性・左右相称性の強い構成、 人物の図式的・平面的な配置のしかたなど、古代ギリシャ様式を基礎に持つ ビザンティン美術の様式が、まだ色濃く残っています。

しかし、中世絵画に比べると、人物の自然な表情、聖母の台座や衣服の表現に 見られる空間表現への意識など、ルネサンス絵画への道を 確実に歩み出していることが見て取れるのです。

彼の代表作の一つ、添付の「荘厳の聖母(マエスタ)」は、まだビザンティン様式の 影響を色濃く残していますが、聖母の玉座は建築物のように描かれ、 3次元的空間が創り出されています。当時としては、斬新で、画期的なのです。

チマブーエはルネサンスの扉を叩いたジョットの発見者であり、 師でもあったと伝えられています。

正面玄関内側の左壁面にはスピネッロ・アレティーノ作 「聖フィリッポと聖ジャコモ・イル・ミノーレの生涯」(1400年頃)、 身廊左側面にアレティーノの息子のパッリ・スピネッロ作と思われる 「受胎告知」のフレスコ画も残っています。

スピネッロ・アレティーノは本名スピネッロ・ディ・ルーカ・スピネッリ。 スピネッリ家のルーカの息子スピネッロと言う意味で,イタリアでは家名に因んだ 個人名をつける場合が珍しくなく,良く知られた例としては17世紀の ガリレオ・ガリレイがあります。

アレティーノはアレッツォ出身という意味で、ペルージャ出身のペルジーノと同じ。

その名の通り1350年頃にアレッツォで生まれ、同地で画家修業をし、 1384年、アレッツォがフィレンツェ共和国に併合されると、 フィレンツェに居を移して、活躍し、ピサやシエナ、アレッツォにも作品を残し、 1410年、アレッツォで死去しています。

息子のパッリは母の実家のあるアレッツォで1387年頃に生まれ、 フィレンツェにいた父の下で画家修業を積み、父の死後はアレッツォの 第一人者として活躍し、1453年、アレッツォで没しています。