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美術館訪問記 - 554 サン・フランチェスコ・デッレ・スカーレ教会、Ancona

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サン・フランチェスコ・デッレ・スカーレ教会正面

添付2:サン・フランチェスコ・デッレ・スカーレ教会入り口

添付3:サン・フランチェスコ・デッレ・スカーレ教会内部

添付4:ロレンツォ・ロット作
「聖母被昇天」

添付5:ロレンツォ・ロット作
「自画像」ティッセン=ボルネミッサ美術館蔵

添付6:アンコーナの風景

前回の市立フランチェスコ・ポデスティ絵画館前の通りを北に進むと100mも行かないうちに小さな広場に出ます。

この広場の一段高い所に建っているのが「サン・フランチェスコ・デッレ・スカーレ教会」。

上層部は茶色のレンガ造り、中層部、下層部は白色のイストリア石造りという珍しい教会です。

このイストリア石というのはヴェネツィアの東に位置するイストリア半島特産。石灰質で軽くて加工し易いのに、結晶構造が密で、耐水性が高いという優れもので海の上に造られたヴェネツィアでは建造物のほとんどに使用されています。

教会に向かって右側に大階段があり、それを登って教会の入り口前に辿り着きます。

この入り口は彫像と浮彫で見事に飾られたヴェネツィアン・ゴシック様式ですが、これはジョルジョ・ディ・マッテオが1454年に完成させたものです。

マッテオは別名ジョルジョ・オルシーニ・ダ・セベーニコと呼ばれる彫刻家ですが建築設計の技術者でもありました。ここの大階段も彼の設計です。

セベーニコはイタリア語でクロアチアのシベニクを指し、つまりマッテオはシベニク生まれで、郷里産のイストリア石を持ち込んで使用していたのです。

上層部のレンガ造りの部分は1777年から1790年にかけての拡張工事の際に、付け足されたものでした。

内部は一身廊のみのスッキリとした構造で、壁や天井、柱、すべてが白色に統一されて、窓が少ない教会内を明るく見せています。

中央の主祭壇にはロレンツォ・ロットの大作「聖母被昇天」があります。

「聖母被昇天」については第365回で詳述していますが、聖母マリアもキリスト同様、一度葬られた後、昇天したとされるので、この絵でも、信徒たちが棺の周りで驚嘆したり、祈ったりしている上を天使たちに支えられながら昇天していく様子が描かれています。

ロレンツォ・ロットは何度も参照しましたが、まだ詳しく説明していませんでした。

彼は1480年ヴェネツィアの生まれで、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの下で学びヴィヴァリーニと人気を二分していたジョヴァンニ・ベッリーニや1494年から2年間ヴェネツィアに滞在していたデューラーの影響も受けています。

しかし彼が独立する頃には天才ジョルジョーネやティツィアーノのいるヴェネツィアでは仕事にありつくのが難しく、記録に残る最初の重要な注文は近郊の町トレヴィーゾで1503年に受けたものでした。

その後アンコーナ近くのレカナーティで数年活動後、人気の出てきた彼は1509年、その前年にラファエロを招聘した教皇ユリウス2世の招きでローマに赴くのです。

しかし、社交性があり、大勢のスタッフを使いこなしていたラファエロに対し、シャイな性格のロットには宮廷生活は窮屈で居心地の悪いものだったようで、翌1510年にはローマを去り、二度と戻りませんでした。

その後はレカナーティで2年余り、第40回で触れたようにベルガモで14年間を過ごして、数多くの作品を同地の教会に残した後、ヴェネツィアやマルケ地方を転々として1550年、アンコーナでこの祭壇画を仕上げています。

しかし期待したような対価を得られなかった彼は、貧困状態に陥り、栄養失調のためでしょうか、視力も弱くなり、最後は第41回で採り上げたアンコーナ近くの町ロレートにあるサンタ・カーサ聖所記念堂の修道院の助修士として1556年、波乱に富んだ生涯を終えています。

ちなみに助修士とは修道士ではなく、修道院に住み込みで雑務をする人をいいます。ロットの場合は修道院のための絵も描くのもその雑務の内の一つでした。

教会を出て見るアンコーナの家並みの向こうの山野は往時と変わらぬ佇まいのようで、過ぎしの日のロットの思いを伝えるかのようでした。