ミラノの北東51㎞のところにアルツァーノ・ロンバルドという古都があります。海抜300mのところにある人口14,000人足らずの田舎町です。
ここに「サン・マルティーノ宗教美術館」があります。
入ると美術館の鑑賞を終えた団体客がガイドとサン・マルティーノ聖堂へ移動している所でした。これから聖堂の由来等を説明し、英語も少し入れるので同一行動をして欲しいということで、聖堂に一緒に行きました。
1023年に建立され、17世紀に現在の姿になったのだとか。
サン・マルティーノの名の付く教会はこれまで二度採り上げましたが、この聖人についてはまだ説明していませんでした。
聖マルティーノは実在した人物で、316年頃、現在のハンガリーにあたる場所、当時のローマ帝国領内に将校の子として生まれ、本人も軍人となります。
彼は、ある寒い日城門の前で半裸で震える物乞いを見て哀れに思い自分の着てきたマントを半分に切って与えるのです。
この物乞いはイエス・キリストであったといわれ、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊します。マルティーノが持っていたほうの半分は、聖マルティーノのマントとして、フランク王国の歴代国王の礼拝堂に保管されます。
礼拝堂(chapel)というのは元来マント(cape)を保管した場所という意味でした。
マルティーノは伝道活動に積極的で数々の奇跡を起こしたと伝えられ、397年に死去しますが、ヨーロッパ初の聖人に列聖されます。彼はまた殉教せずに列聖された初めての聖人です。
数多くの教会や礼拝堂が彼に捧げられ、ドイツとフランスの守護聖人でもあります。マルティーノは、マルティヌス、マルタン、マルチノとも呼ばれます。
彼の逸話は多くの絵画にもなっています。
今回の旅では聖堂そのものは目的地ではなく、鄙には稀な壮麗な大聖堂の偉容に驚かされましたが、特に目に付く美術品はなく、説明もイタリア語だけなので、抜け出して宗教美術館へ向かいました。
すると60歳ぐらいの女性がガイドとして付いて来て片言の英語で簡単な説明をしてくれました。
展示品の中ではパルマ・イル・ヴェッキオの「ヴェローナの聖ピエトロの殉教」とティントレットの「聖クリストフォロスの川渡し」の2大作が目立ちました。どちらも色彩も鮮やかで保存状態がよい。
パルマ・イル・ヴェッキオは何回か名前を出しましたが、まだ説明していませんでした。
彼は1480年、アルツァーノ・ロンバルドに近いセリーナの生まれで、本名はヤコポ・パルマまたはヤコポ・ネグレッティ。
イル・ヴェッキオ(老人)と呼ばれるのは同名の甥の息子、パルマ・イル・ジョーヴァネ(若者)と区別するためで、二人共世界中の美術館に所蔵されている著名画家です。
パルマ・イル・ヴェッキオの記録が最初に出てくるのは1510年、ヴェネツィアですが、おそらく1500年代初にはヴェネツィアに出て修行していたと考えられます。
イル・ヴェッキオの娘、ヴィオランテに夢中だったという、ティツィアーノと彼の師のジョヴァンニ・ベッリーニの影響を強く受けた画風で、ヴェネツィア派の特徴である色彩の豊かさを十分に発揮して、宗教画や上流階級の肖像画、特に女性の半身像に優れた作品を多く残しています。
ただ真の巨匠の条件である独創性や、構想力、精神性がみられる作品は乏しい。
彼の作品で最も心に残るのは、マドリードのティッセン=ボルネミッサ美術館で観た「美しき女性の肖像」です。モデルは特定されていませんが、1525年頃、彼の死の3年前に描かれた熟練の技による傑作です。