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美術館訪問記 - 543 ボカラトン美術館、Boca Raton

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ボカラトン商店街

添付2:ボカラトン美術館外観

添付3:ボカラトン美術館受付

添付4:国吉康雄作
「飲み物を手にした女」

添付10:ボカラトン美術館内部

フロリダ州マイアミから北に70㎞程の所にボカラトンという市があります。青い空と海、椰子の木の茂る高級避寒地としてアメリカではとても有名です。 人口10万人足らず。

この街の中心に、中央に両側に椰子が植えられた分離帯公園があり、 その両側に広い石畳み道路のある、ピンクで統一された風情ある店が建ち並ぶ 美しい商店街があります。まさに南国のリゾート地そのものを感じさせます。

その商店街の一端に垂直な道の商店街とは反対側にあるのが「ボカラトン美術館」。

2001年の開館ですが、前身となるボカラトン美術組合は1950年に結成されており、 この時使用されたパルメット・パーク通りにある建物は、 現在ボカラトン美術学校となり、老若男女3000人が学んでいます。

回廊のようになっている通路を抜けて美術館に入ると、 受付横の壁に現地の新進画家の手になる南国の花々が咲き乱れていました。

常設展会場に入ると、国吉康雄の「飲み物を手にした女」がありました。 1937年作ですが、1925年、1928年と二度に渡ってパリに出かけた国吉は、友人の エコール・ド・パリの画家、パスキンの影響を受けて画風を一変させています。

それまでの素朴でプリミティヴな表現から、パスキン風の退廃的な女性像が 多くなり、色調も深緑や赤茶から、セピア色を主とするようになります。

都会に生きる女性の憂愁を普遍的に描いた彼の絵は人気を博し、 この頃から全米各地の美術館が彼の作品を収蔵するようになっていくのです。

この絵では、左手に煙草を、右手にグラスを持った女性が放心したように 外を眺めています。失恋したのか、何らかの諍いがあったのでしょうか、 飲み残したもう一つのグラスの存在が今までいた人が去った事を暗示しています。

日中戦争から第二次世界大戦に至るこの時期、国吉は作品に込めた憂愁とは 反するように、活発な社会的活動を行っています。

1936年に設立された左翼色の強いアメリカ美術家会議に主要メンバーとして 加わり、「戦争とファシズムに抗して」や「世界のデモクラシーを防衛する」 といった展覧会の企画を推進しています。

また1941年にはアメリカへ忠誠を誓う声明を出し、42年には日本軍を批判する ポスターを制作したり、短波無線放送で日本の芸術家に対して反ファシズムを 呼び掛けたりしています。こうして何とか強制収容所へ入ることは免れたのです。

国吉の作品と同じ年に描かれたルオーの「兵士」もインパクトのある絵です。

考えてみたらルオーは何度も名前を出していながら、まだ説明していませんでした。

ジョルジュ・ルオーは1871年、貧しい家具職人の子としてパリに生まれます。 父親は信仰に厚く、母親も熱心なカトリック教徒で、 ルオーの宗教観は子供の頃に形成されたと思わます。

14歳からステンドグラス職人の見習いとして働く傍ら、装飾美術学校の夜学に 通ってデッサンを学びます。輪郭線を黒色で太く描くルオーの技法には、 このステンドグラス職人の経験が強くかかわっています。

画家への関心を高めて行き、1890年国立美術学校に入学しモロー教室に入ります。 モローは象徴主義の有名画家ですが、教師としても優れた資質を発揮し、 マティスやマルケ等と共にルオーは一番弟子として目をかけられます。

モローの死後、国立モロー美術館がオープンすると、モローの遺言により、 その館長を任されて経済的に安定し、以後創作に没頭できるようになります。

更に1917年、画商ヴォラールがルオーを高く評価し、当時アトリエにあった 制作中の作品770点を生涯をかけて完成することを条件に総額49,150フランで 買い取る契約を結びます。現在価値では5千万円くらいでしょうか。

ルオーは、いったん仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない 作品を決して世に出さない画家でしたので、これだけの未完成作品があったのです。

ルオーの特色である盛り上がった画面は、絵の具を一度に厚く塗ったためではなく、 薄く描いた上から、何度も加筆し描き抜いた結果でした。

晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、 世に出さず、焼却する」と言い出します。

ヴォラール側は「未完成作品も含めて自分の所有である」と主張しましたが、 「未完成作の所有権は画家にある」とするルオーの主張が1947年に認められ、 ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、 ボイラーの火にくべたのです。それが彼の芸術家としての良心の表明でした。

ルオーはルーベンス、レンブラント以降最大の宗教画家と評され、 自らも「キリスト教画家」と称しています。ここにある「兵士」は キリストの最後の処刑台への道行きを警護する兵士を描いたものです。

この美術館には他にもヴラマンクやシャガール、リヒテンシュタインなどに加え、 キリコの珍しい彫刻作品もありました。



(添付5:ルオー作「兵士」、添付6:ヴラマンク作「ブルターニュの道」、添付7:シャガール作「頭部と花」、添付8:リヒテンシュタイン作「 眠れる女神」及び 添付9:キリコ作「ヘクトールとアンドロマケの別れ」は著作権上の理由により割愛しました。
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