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美術館訪問記 – 537 ジョージア美術館、Athens

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ジョージア美術館正面

添付3:上記作品への子供用説明と問いかけ

添付5:エリザベス・ガードナー作
「信頼」

添付6:ガードナー作
「羊飼いダビデ」
ワシントン、国立女性美術館蔵

添付8:ボナール作
「ヴェルノンの我が家」

アトランタの東100㎞足らずの場所にアセンズという都市があります。

ギリシャの都市アテネ(英語の綴りはAthens)の英語読みで、1801年、この町にジョージア大学が設置される時にギリシャのアカデミーがあったアテネに因んで命名されたもので、その年にこの町もできたのです。

町の起源通りのジョージア大学の大学町で13万人足らずの人口のほぼ5割が24歳以下という若者の町です。

そのジョージア大学の敷地の端にあるのが「ジョージア美術館」。1948年大学付属美術館として開館し、1982年にジョージア州の美術館となりました。

この美術館は1階が駐車場で2階が展示場になっていますが、1階の駐車場には従業員と関係者だけの使用と入口に張り紙してありました。私が行った時は広々として車は2台しか停まっていず、30台分位は空いていました。

一方、客用はというと炎天下に10台分しかなく、1台分しか空いていないのでした。アメリカ人のサービスに対する考え方がここにもよく表れています。

この美術館には他にない素晴らしい事が一つありました。目ぼしい絵の横にKids(子供達へ)と題した張り紙があり、絵の簡単な説明と子供に考えさせる問い掛けが書いてあるのでした。

例えば、ピエール・ダウラが描いた13歳の自分の娘マーサの肖像画に対しては、「何色が一番使われていますか」「作者はその色を使う事で自分の娘について何を言おうとしていると思いますか」「マーサをよく見て彼女の性格を形容してみてください」「絵の何処を見てそう思いましたか」

これらは子供達に対象の絵について考えさせ、理解を深めさせる素晴らしい試みと思います。この美術館を訪れた親子は、双方にとって、対象の絵画をより深く理解すると同時に、お互い同士を理解しあう一助にもなるでしょう。

ピエール・ダウラは1896年スペイン、バルセロナの生まれです。バルセロナの美術学校でピカソの父親の教えを受け、14歳で友人たちと共同でスタディオを持ち、出展した作品を購入してもらえたという早熟な画家でした。

教師の勧めにより18歳でパリに出、エミール・ベルナールの下で働き、彼とはその後長年の友人となります。

21歳で義務だったスペインでの兵役に就き、終了後はパリで画業を続けますが、壁画制作中に足場が崩れ、27歳で左腕が一生使えなくなってしまいます。

32歳でパリに来ていたアメリカ、ヴァージニア州出身の女流画家と結婚。新婚旅行で滞在したフランスの最も美しい村の一つ、サン・シル・ラポピーが気に入り、崩れかけた13世紀の家を買い、改造して住みつくのです。

1939年第二次大戦勃発後は妻の故郷のヴァージニア州に移り住み、1943年、13歳になったマーサ共々、アメリカに帰化します。戦後はサン・シル・ラポピーとアメリカを往復しつつ1976年、アメリカで死去。

ダウラは長い生涯の中で一貫して絵画や彫刻を制作し続け、多くの作品がフランスや、スペイン、アメリカの美術館に展示されています。

この美術館で一番驚いたのはてっきりブグロー作と思った大作「信頼」が彼の妻のエリザベス・ガードナーの描いたものだった事でした。

左側の女性の顔、左下に置かれた壺、どれもブグローが描いたとしか思えません。夫婦でここまで似るものなのでしょうか。またはブグローの手が入っているのか。

ガードナーは1837年アメリカ、ボストンの北、ニューハンプシャー州の生まれで、美術とフランス語、イタリア語、ドイツ語を学び、18歳で卒業後はフランス語の教師を務め、26歳でパリに赴きます。

パリにやって来るアメリカ人の求めに応じて新旧の名画の複製で暮らしながら、1868年、パリのサロンに展示された初のアメリカ人女流画家となるのです。

1872年、サロンで金賞を獲得。過去、女流画家が誰も成し得なかった快挙でした。

1867年から師事していたブグローの妻が1877年に死亡。ブグローはガードナーを後妻にしようとするのですが母親の猛反対に会い、結婚するのは母親の亡くなった1896年になります。それまでも二人は公然たる夫婦関係にありました。

ガードナーは英仏独伊語を使い分け、多くの顧客を持ち、パリのサロンには他のどの女流画家よりも多く入選し、彼女の入選数を上回る男性画家は極僅かでした。

そんな彼女の代表作とされるのがここにある「信頼」とワシントンの国立女性美術館にある「羊飼いダビデ」なのです。

同様にジャン・デュフィにも驚きました。デュフィと表示され、絵も見慣れた画風なのでてっきりラウル・デュフィと思ったら、彼の弟なのでした。

ジャンはラウルの11歳年下で、兄ラウルが生涯を通じての指導者でした。

ジャンは生誕地のル・アーヴルの美術学校卒業後、16歳で企業に就職しますが、18歳の時にル・アーヴルで開かれた展覧会でピカソやアンドレ・ドラン、マティスなどの作品を目にして画家になろうと決心するのでした。

2年間兵役に就いた後パリのモンパルナスに住み、隣人で兄の友人でもあったブラックやその親友ピカソ、ドランなどと交わりながら画業に勤しむのです。

その間、リモージュの陶磁器製造業者の依頼を受けリモージュ焼のデザインを引き受けたのが縁で、その業者がパトロンになってくれ、30年以上もそのデザイン業務を継続することにもなりました。

ジャンは1964年、パリで亡くなっています。享年76。



(添付2:ピエール・ダウラ作「13歳のマーサ」、添付4:ピエール・ダウラ作「無題」、添付7:ジャン・デュフィ作「サクレ・クール寺院」は著作権上の理由により割愛しました。
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