ボン中央駅直ぐ近くに「ライン州立博物館」があります。
1820年創設のドイツでは最古の博物館の一つですが、現在の建物は2003年に100億円近くをかけて大改修した近代建築となっています。
ヨーロッパの中心であったライン川沿岸の一帯の文化史を紹介する施設として氷河期の化石から、ローマ植民地時代のモザイクや装飾品、中世から現代美術まで幅広い展示内容です。
ネアンデルタール人頭骨がある事で有名ですが、蝋細工による本物そっくりの復元像もありました。
我々ホモ・サピエンスの一亜種とされるネアンデルタール人はドイツ、デュッセルドルフ郊外のネアンデル谷で1856年に発見され、ボン大学の解剖学教授が調査、発表し、命名したものなのです。
私がここを訪れたのは考古学的な興味ではなく、ピーテルとヤンのブリューゲル兄弟やロイスダールなどの絵画が展示されているからです。
ブリューゲル兄弟の父のピーテル・ブリューゲルについては第157回で詳述しましたが、子供たちについてはまだ説明していませんでした。
ピーテル・ブリューゲル子は長男として、著名な画家だった同名の父のもとに1564年、ブリュッセルで誕生。
父を5歳で、母を14歳で失い、弟のヤン共々、父親の継母だった祖母フェルフルストに引き取られます。フェルフルストの夫は多産な画家だったピーテル・ファン・アルストで既に死亡していましたが、フェルフルスト自身がミニチュア画家として名を成していました。
ブリューゲル兄弟に画業の手ほどきをしたのは、フェルフルストと考えられます。その後一家はアントワープに移り、1585年には同地で親方として登録されています。
この博物館には彼の「説教をする洗礼者ヨハネ」がありましたが、これは父親作の同名絵画の完全なコピーで、ピーテル子の作品の大半はこのようなコピーでした。
彼のオリジナルは25点ほどが確認されていますが、その内19点は同じ絵画を自分の工房でコピーしたもので、それだけ評判が高かったのでしょう。
それが添付の「徴税収集人事務所」。細密描写は巧みですが、父に比べると線が細く、訴求力には見劣りがします。アントワープで没。享年72。
弟のヤンは4歳下で、兄と共に修業後、21歳から7年間イタリアに滞在。
ローマでは反宗教改革で主要な役割を果たし、熱心な美術収集家でもあったフェデリコ・ボッロメオ枢機卿の知己を得、生涯のパトロンを獲得します。ヤンは枢機卿のために数多くの風景画や花の絵を残しました。
1597年アントワープに戻り、結婚し、大きな家を買い、1606年には南部ネーデルラント総督の宮廷画家に任命されます。
1610年からはルーベンスがフェデリコ・ボッロメオ枢機卿との仲介役となり、ヤンがコレラで死ぬ1625年までヤンのために25通の手紙を枢機卿に書いています。
ヤンはその手紙の中でルーベンスの事を「私の秘書」と呼んでいますが、「王の画家にして画家の王」とまで言われたルーベンスを秘書扱いとは。
ヤンは兄とは異なり、父の模倣ではなく独自の画風を築きあげています。その色調から「ビロードのブリューゲル」や、静物画や植物描写を得意としたことから「花のブリューゲル」とも呼ばれます。
他の画家との共同制作も多く、人物をルーベンスなどの他の画家が、ヤンが背景の風景や植物、花などを描いた絵を方々の美術館で見かけます。
ヤンの二人の息子、ヤンとアンブロシウスも画家になりました。二人共父の画風を踏襲していますが、ヤン・ブリューゲル子の方が弟に比べはるかに多くの作品を残しています。
ヤン・ブリューゲル子の息子、アブラハム・ブリューゲルも画家となり父や祖父同様、花を描いた静物画を残しています。
ブリューゲル一族は名の残る画家を輩出しているので、彼らの作品を観る時は名字だけでなく名前を確認する必要があります。
トーマス・マンの「魔の山」に登場することで知られている14世紀中頃の木彫りの「ピエタ」がありました。
通常のピエタとは異なり、聖性とか悲愴美とかはいささかも感じられない、聖母とキリストは衝撃的です。
特にキリストはあまり血を流し過ぎたせいかどうか、その遺骸はコチコチに乾いていて、遺骸よりもミイラのようです。