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美術館訪問記 - 525 ボン美術館、Bonn

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ボン美術館外観

添付2:ボン美術館エントランス・ホール

添付3:マッケ作
「自画像」1909年

添付4:マッケ作
「刺繍する女性」1910年

添付5:マッケ作
「林檎と日本うちわのある静物」1912年

添付6:マッケ作
「アクロバット」1914年

添付7:ドローネー作
「同心円」1913年

添付8:ドローネー作
「エッフェル塔」1911年 シカゴ美術館蔵

添付9:ドローネー作
「同時的なコントラスト 太陽と月」1913年
ニューヨーク近代美術館蔵

添付10:ノルデ作
「ナジャ」

統一以前の西ドイツの首都だったボンには「ボン美術館」があります。

ここはドイツ生まれでベルリン在住の建築家アクセル・シュルテス設計の巨大で近代的な美術館。1992年開館。

陽光が美術館全体に満ち溢れる構造で、エントランス・ホールは広々として正面に幾何学的な形状をしたユニークな階段が目に入ります。

コレクションは器にマッチした20世紀以降の近現代美術。

最初の2部屋は、ボンで生まれ生涯の大半をボンで過ごしたアウグスト・マッケに捧げられています。油彩水彩合わせて31点、彫刻3点。世界最大のコレクション。

マッケについては第143回で詳述しましたが、1887年の生まれで、フランツ・マルクと生涯の友情を結ぶ仲になり、「青騎士」の2回の展覧会にも参加し、若くして名声を確立します。

修業時代に盛んになったドイツ表現主義の影響を強く受けていますが、旅先のパリで会ったマティスやロベール・ドローネーの影響も大きい。

マッケは自分の芸術について「物事の美しさを歌い上げるもの」と言っていますが、これは彼の心酔したマティスの「この世のみずみずしい美しさの一部を明らかにすることに人生を捧げた」という言葉と呼応しています。

色彩と光の画家マッケはこの光の美術館とよく似合います。

彼のほのぼのとした暖か味のある絵、透明感ある豊かな色彩、マティスも追及した単純化した構成、底流に漂う詩情を感じるにつけ、第一次世界大戦の兵役のため27歳で夭折したことが惜しまれます。

マッケが影響を受けたロベール・ドローネーの作品が1点、マッケ展示室に飾られていました。勿論マッケと関連付けての事でしょう。

ロベール・ドローネーは何回か名前を出しましたが、まだ説明していませんでした。

彼は1885年、パリの生まれで、自分の進路を決める頃、画家になることを決意し、正規の絵画教育は受講しなかったものの、ゴーギャン、スーラ、セザンヌ、アンリ・ルソーなどを研究し、制作を始めます。

1909年にキュビスム運動に参加。ただ、ピカソ、ブラックらキュビスムの画家たちの画面がほとんどモノクロームに近かったのに対し、ドローネーの画面では色彩が主要な役割を果たしていました。

ドローネーはキュビスム的なパリの風景とエッフェル塔の習作シリーズを描き始め、翌年、ウクライナ出身の女流画家ソニア・テルクと結婚。

ソニア・ドローネーも美術館ではよく見かける画家です。

カンディンスキーの招きで、青騎士に参加したドローネーは青騎士第一回展にも出展しています。この頃から抽象化が進んで行きます。

ドローネーはカンディンスキー、ピエト・モンドリアンと共に抽象絵画の先駆者の一人であり、フランス人画家としてはもっとも早い時期に完全な抽象絵画を描いた画家の一人です。

1912年パリで開いた最初の大規模個展を観た詩人のギヨーム・アポリネールはドローネーを絶賛し、彼の作風を「オルフィスム」と名付けます。

「オルフィスム」はギリシャ神話の音楽家オルフェウスに因んだ造語で、ドローネーらの作品を、他のいかなるものからも影響を受けていない独自の芸術、音楽と同様の純粋芸術と位置付けたものです。

くすんだ灰色や茶色を主調とするピカソやブラックのキュビスムとは一線を画した、ドローネーの明るく輝く色彩を讃えてのことでした。

ただオルフィスムについては、作家または作品に必ずしも共通性がなく、ジャンル分けとして余り意味や必要がないのではないか、という批判も強く、西洋美術史上で確固たる市民権を得ているとは言い難いでしょう。

どちらかというと無機質な印象を受けることが多い抽象画ですが、ドローネーの描く抽象画には独特の幻想的で柔らかな印象、美しさと温かみが感じられるのです。

ドローネーは1941年、モンペリエで癌のため死去。

ボン美術館には他にもヘッケルやシュミット=ロットルフ、ノルデなどのブリュッケのメンバーの作品やマックス・エルンスト、ヤウレンスキーなどの作品も展示されていました。