これまで紹介して来たベルリンの美術館は全て市内中心部にありますが、今日の「ブリュッケ美術館」は市内中心部から南西10㎞余りの郊外に位置します。
見るからに高級住宅街の一角にあり、平屋で小ぢんまりとした美術館。展示されているのは館名の通り「ブリュッケ」のメンバーたちの作品です。
ブリュッケとその中心メンバーであるキルヒナーの事は第263回で詳述しましたが、キルヒナーが学生仲間のヘッケルやシュミット=ロットルフらと1905年にドレスデンで結成した画家グループで、ブリュッケとはドイツ語で橋を意味します。
保守的なアカデミックスタイルを退け、新しい表現スタイルを確立するため、古典と前衛との架け橋となるという意図でした。
ブリュッケの画家達は、現実の描写よりも芸術の主観性を重んじ、作者の内面を表そうとする、ドイツ表現主義の立場をとり、粗野な線と派手な色彩を用いた情動的な画面が特徴です。
ブリュッケにはその後エミール・ノルデやマックス・ペヒシュタイン、オットー・ミュラー等も参加しますが、1913年には解散します。
この美術館は中心メンバーの一人だったシュミット=ロットルフが、1964年、80歳の誕生日を記念して、コレクションをベルリン市に展示を前提に寄贈したのが始まりで、そこにヘッケルらのコレクションも加わり、1967年に開館。
今では400点以上の油彩画、数千点の素描や水彩画、版画のコレクションを誇り、ブリュッケは勿論、ドイツ表現主義の画家たちの世界最大の所蔵美術館です。ただ展示面積は限られ、観られるのはその極一部だけですが。
シュミット=ロットルフはまだ説明していませんでしたが、本名はカール・シュミット。1884年、ドイツのロットルフ村で生まれました。
最初はキルヒナー同様、建築を目指していたロットルフですが、途中で画家志望となり、ブリュッケ創立メンバーとなった頃に生地ロットルフにちなんで、シュミット=ロットルフの名を名乗るようになります。
1915年から3年間兵役に就いた後、表現主義の絵画も世に認められていきますが、1930年代に入り、ナチスが台頭すると、シュミット=ロットルフは退廃芸術家の烙印を押され、迫害されるのです。
ナチスがなぜ当時の前衛芸術家たちを退廃芸術として排除しようとしたのかは、ひとえにナチス党首だったヒトラーの逆恨みともいえる狂気にあります。
ヒトラーは元々オーストリア人ですが、中学校も2回留年後退学している劣等生で、18歳になって当時は職業訓練校的な位置付で小学校卒でも受験できたウィーンの美術アカデミーを受験しますが2年続けて落第。
このことが生涯トラウマとなって自分の好みの古典的、写実的絵画を賛美し、前衛芸術家たちを迫害する事につながるのです。
ナチスは、1937年、党の認める芸術を集めた「大ドイツ芸術展」を開催します。さらに、その翌日に全国の美術館から集めた20000点近い絵画や版画を退廃芸術として晒しもの的に公開する「退廃芸術展」を開催するのです。
退廃芸術展は異様な盛り上がりを見せ、期間中の観客は400万人と大ドイツ芸術展の入場者数70万人を大きく上回りました。まあ駄目だとされるものを見たいのは人情でしょう。
シュミット=ロットルフの作品も608点が出品されますが、それだけ彼自身評価されて来ていたとも言えます。その上ナチスは彼が制作する事も禁止します。
ナチが崩壊するとロットルフは再評価され、1946年にはベルリン美術アカデミー教授となりました。その後、1976年、91歳で生涯を閉じるまで作品を制作し続けました。
(添付4:エーリッヒ・ヘッケル作「若者、自画像」、添付8:シュミット=ロットルフ作「ヴァレルの港」 水彩 、添付9:シュミット=ロットルフ作「ローザ・シャピーレ」および 添付10:シュミット=ロットルフ作「閉ざされた部屋の静物」は著作権上の理由により割愛しました。
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