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美術館訪問記 – 518 ベルリン・ギャラリー、Berlin

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ベルリン・ギャラリー外観

添付2:ベルリン・ギャラリー1階入り口付近

添付3:ベルリン・ギャラリー中央部

添付4:アレクサンダー・カーノルト作
「アマリリスのある静物画」

2004年と比較的新しく開館したのが「ベルリン・ギャラリー」。

その名の通り、ベルリンにかかわりの深い作品が中心のギャラリーで、20世紀前半から現代までの作品が4600㎡のスペースに展示されています。

もっとも、このギャラリーの創設は1975年で新国立美術館の一隅を間借りしたり、カジノの一部に入ったり、マルティン・グロピウス・バウを借用したりしてやっと2004年に現在地に落ち着いたのです。

入って直ぐの場所には大人1人がやっと入れるぐらいの異常に幅の狭い家が置かれ、それに入るための長い待ち行列が出来ていました。

両端の窓から覗くと中にはトイレや椅子、テーブルなども異常に幅を狭くして作ってあります。その非日常的な感覚が面白いのでしょう。子供だけでなく大人が真剣に楽しんでおり、帰る時も大人ばかりが長い行列を作っていました。

中心部分には1-2階を繋ぐ階段が交差したモダンな空間が広がり、壁も床も天井も階段裏も柱も全て白色で統一されて現代美術館らしい佇まい。

1階では先程の家のように、ベルリンで活躍するアーティストから海外アーティストまで様々な切り口でまさにアートの「今」を表現する企画展が行われていますが、2階に上がって常設展を観てみましょう。

第374回で詳述したアレクサンダー・カーノルトの「アマリリスのある静物画」がありました。一目で彼の作と判る、静寂感のある好ましい絵です。

同じ静物画でも、ロシア前衛芸術家イワン・プーニの手にかかると、得体の知れない白色の長方形の物体が宙に浮いて、静寂からは程遠く感覚が掻き乱されます。

イワン・プーニは1892年生まれのイタリア系のロシア人で、1910年から2年間パリで美術教育を受けた後、ロシアに戻り、結婚した画家のクセニア・ボグスラフスカヤと共に前衛美術活動を精力的に実施。ロシア革命後はヴィテブスクでシャガールと一緒に教師をしたりもします。

1920年、ベルリンに住みついた彼は、翌年有名ギャラリーで個展を開きますが、会場全体を彼の作品として、キュビスムの衣装を着けた複数のサンドイッチマンに会場や通りを練り歩かせ前衛芸術に馴染みのない当時の人々を驚かせたのでした。

1922年、ベルリンで開かれた第1回ロシア大芸術展に出品された「統合音楽家」はそのサンドイッチマンに想を得て描いたものですが、彼の代表作となっています。

イワン・プーニは1924年、パリに移住し、フランスに帰化して1956年パリで死亡。

ユージーン・スピロの「ダンサー」も佳品でした。

スピロは1874年ユダヤ系のドイツ人としてポーランドで生まれ、20歳でミュンヘン美術アカデミーに入り、フランツ・フォン・シュトゥックの下で学んでいます。この絵は27歳の時に描いたものですが、シュトゥック作としても通用しそうなくらい師の作風を受け継いでいます。

奨学金を得てイタリアで1年間オールド・マスター作品を模写して修業後、ミュンヘンやベルリンの分離派の主要メンバーとして活動しますが、ナチスの台頭により、1935年にはパリへ、1941年にはニューヨークへ移住。1972年ニューヨークで死去。多くの肖像画を残しました。

スピロの妹のエリーザベトはピカソが「20世紀最後の巨人」と称えたかのバルテュスの母です。

他にもココシュカやクリスチャン・シャドなどがありました。



(添付5:イワン・プーニ作「白い瓶のある静物画」、添付6:イワン・プーニ作「統合音楽家」、添付7:ユージーン・スピロ作「ダンサー」 および 添付8:ココシュカ作「ネル・ウォールデンの肖像」は著作権上の理由により割愛しました。
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