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美術館訪問記 - 516 ベルクグリュン美術館、Berlin

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ベルクグリュン美術館外観

添付2:ベルクグリュン美術館内部

添付8:クレー作
「馬上で戦場に向かう皇帝」

添付9:マティス作
「縄跳びをする女」

ドイツの首都ベルリンは人口361万人、首都圏人口612万人のドイツ一の大都会。これまでにもベルリン絵画館と旧国立美術館に触れて来ましたが、この巨大都市にはまだまだ数多くの美術館があります。

それらを主にABC順に採り上げていきましょう。

最初は「ベルクグリュン美術館」。

1996 年、ベルリン生まれの美術商、ハインツ・ベルクグリュンの収集品がプロイセン文化財財団に譲渡されたものを展示するために開館。現在は国立美術館となっています。

1914年生まれのベルクグリュンはユダヤ系であったため、ナチスの手を逃れてアメリカへ亡命し、カリフォルニア大学バークレー校卒業後サンフランシスコ美術館で働き、1944年に米軍兵士としてドイツへ帰国。1947年にはパリでギャラリーを開き、ピカソの専属画商にもなるのです。

画商として成功した彼は、多くの著名な画家達との交流を通じて、気に入った作品は売らずに自分のコレクションに加えて行き50年近くの間に興味深い個人コレクションを作り上げたのでした。

美術館としてはこぢんまりとした瀟洒な建物で、親しい友人宅に招かれたような居心地の良さを感じます。

一人の画家の作風が初期から晩年にかけて、どのように発展していったのかがわかる展示の仕方の面白さと、コレクターの画家への愛情と尊敬が伝わってくる心洗われる美術館と言えます。

親しい友人でもあったピカソのコレクションは特に素晴らしく、120点以上の作品を所有し、青の時代、桃色の時代、アフリカ彫刻の時代、キュビスムの時代、新古典主義の時代、シュルレアリスムの時代と、斬新な表現の開拓者であったピカソの全体像を目の当たりにすることができます。

その中から幾つか見てみると、ピカソとバルセロナで知り合って以来、生涯を通じての親友で晩年の33年間は個人秘書でもあったハイメ・サバルテスの22歳時の肖像画が青の時代を象徴しています。

続いて翌年描かれた桃色の時代初期の「座る道化師」。フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、親友の自殺に起因する青の時代を払拭しつつあるピカソの心情が感じられます。

ピカソは生涯にわたって女性遍歴をしており、相手が変わる毎に彼の絵も変わっていくのです。

1936年から1945年までは、カメラマンで画家のドラ・マールと関係します。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、「ゲルニカ」の制作過程を写真に記録していたりしていますが、最初に会った時の彼女の肖像画と翌年描いた肖像画の違いが面白い。

1943年、ピカソは当時21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、1946年から同棲生活を始め、2人の子供を設けるのです。

しかし、ジローはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子供を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚します。このことはピカソに大きな打撃を与えました。ジローはピカソを捨てた唯一の女性と言われます。

1954年に傷心のピカソが殊勝に描いた「座るアイネス」という素描がありました。この絵を一目見てピカソ72歳の時のデッサンと思う人はいないでしょう。

ベルクグリュン美術館の2番目の柱はクレー。70作品が展示されていました。

他にもマティス22点、セザンヌ、シャガール、ロートレック、ジャコメッティ等もありました。



(添付3:ピカソ作「ハイメ・サバルテスの肖像」1904年、添付4:ピカソ作「座る道化師」1905年、添付5:ピカソ作「緑色のマニュキュアをしたドラ・マール」1936年、添付6:ピカソ作「花束を持ったドラ・マール」1937年、添付7:ピカソ作「座るアイネス」1954年 および 添付10:アルベルト・ジャコメッティ作「ベニスの女性Ⅳ」は著作権上の理由により割愛しました。
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