大通りに面していないため、あまり目立たないものの、アウクスブルクとドイツの歴史上、重要な教会が「聖アンナ教会」。
1321年に建てられたアウクスブルクでも古い教会の1つで、1509年にフッガー家の墓所が設けられ、当時はヨーロッパ有数の富豪と見做されたヤコブ・フッガーやその親族が眠っています。
この墓所礼拝堂はドイツにおける最初のイタリア・ルネサンス建築です。
ドイツの歴史に関係するのは、宗教改革の旗手だったマルティン・ルターが1518年、ローマ教皇庁の使者である枢機卿と面会して詰問された「アウクスブルクでの審問」の期間、この教会に滞在していたからなのです。
彼の寝起きした狭い部屋が保存、公開されていました。
ルターは自説の撤回を拒否し、身の危険から逃れるためアウクスブルクを去り、ルターを支持していた有力者の一人で、賢明公と呼ばれたザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を受けて、聖書のドイツ語訳に勤しんだのでした。
1521年、ローマ・カトリック教会はルターを破門。しかしルター派は「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれるようになり、その勢力は拡大して行ったのです。
1546年にルターは亡くなり、その死から9年後の1555年、アウクスブルクの宗教和議が成立。これによりアウクスブルク帝国議会はルター派を容認し、都市や領主に対して宗派の選択権を認めたのでした。
そうした縁もあり、この聖アンナ教会はアウクスブルクで最も格式の高いプロテスタント教会として知られています。
ルーカス・クラーナハ作の「マルティン・ルターの肖像」が主祭壇室の壁に掛けられていました。クラーナハは11歳年上ながらルターの親友で、ルターの結婚の媒酌人も、彼の長男の洗礼式の立会人も務めています。
またこの関係を利用して飛ぶように売れたルター訳の新約聖書は勿論、彼の著作一切を自分の印刷会社で出版。印刷物は自分の経営する本屋で売り、印刷用紙の売買もして何重にも儲けたのです。
勿論本業の絵の方でも、個人崇拝されてきたルターの肖像画を量産。ルター本人だけでなく彼の妻や両親の肖像画も描いています。
主祭壇下部にはこれもクラーナハの手になる「子供たちを祝福するキリスト」がありました。
礼拝堂の4隅にプロテスタント教会には珍しい小天使のあどけない彫像が飾られていました。