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美術館訪問記 –507 メディチ・リッカルディ宮殿

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ベノッツォ・ゴッツォリ作
「東方三博士の旅」

添付2:ベノッツォ・ゴッツォリ作
「カスパールの行列」

添付3:ベノッツォ・ゴッツォリ作
「カスパールの行列」左側部分図

添付4:ベノッツォ・ゴッツォリ作
「カスパールの行列」内、自画像

添付5:メディチ・リッカルディ宮殿外観

添付6:メディチ・リッカルディ宮殿中庭
写真:Creative Commons

添付7:ルカ・ジョルダーノの部屋

添付8:フィリッポ・リッピ作
「聖母子」
写真:Creative Commons, I, Sailko

前回ベノッツォ・ゴッツォリの「聖カタリナの神秘の結婚と三聖人」に触れましたが、ベノッツォ・ゴッツォリについてはまだ説明していませんでした。

彼は1421年頃フィレンツェ近郊で生まれ、ヴァザーリの芸術家列伝によると、フラ・アンジェリコ工房に入り、最初は師と共に、途中からは師のデザインに基づいて独自にサン・マルコ修道院壁画、ヴァティカンの壁画などを手掛け、1449年には独立して、ウンブリア地方の方々に作品を残しています。

この間、1444年から1447年にかけて、ギベルティと共同で、サン・ジョヴァンニ礼拝堂の楽園の扉彫刻を制作したりもしています。

ルネサンス時代の芸術家はレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロも含め、絵画や彫刻、装飾も全て基本教養として手掛けたものでした。

ミケランジェロが最初に弟子入りしたのは画家のドメニコ・ギルランダイオですしレオナルド・ダ・ヴィンチが弟子入りしたのは彫刻家のヴェロッキオでした。ゴッツォリも当初ギベルティの下で彫刻家修業をしていたのでしょう。

ベノッツォ・ゴッツォリは、それまでの活躍が認められて、メディチ家から、1459年、当時のメディチ家の宮殿の礼拝堂の壁画装飾を依頼されます。

それがベノッツォ・ゴッツォリの最高傑作と言われる「東方三博士の旅」。

礼拝堂の4面に描かれた壁画は豪華絢爛、華麗鮮明な色彩絵巻です。高価な金やラピスラズリが惜しげもなく使われ、細密に描写された、モニュメンタルな行列は観る者の心を掴んで放しません。

礼拝堂の東側の壁を飾る三博士の中では最年少とされる「カスパールの行列」で、先頭の若い王カスパールは後の豪華王ロレンツォ・デ・メディチ。この絵が描かれた頃はまだ12歳で、容姿はかなり理想化されています。

従者団の先頭で白馬にまたがっているのはロレンツォの父、ピエロ・デ・メディチ。ピエロの後ろでただ一人、茶色のロバにまたがっているのがピエロの父コジモ。

コジモはメディチ家繁栄の礎を築いた中心人物。なぜロバかというと、イエスの最後、歓呼で迎えられた「エルサレムへの入城」の乗り物も、やはりロバだったことを踏まえ、絵の中で最大級の待遇をしているのでしょう。

登場人物の多くはメディチ家ゆかりの人たちで、当時はそれぞれ特定できたと考えられます。ゴッツォリはコジモの後ろに続く従者たちの中に自画像を描き加え、その帽子の縁に「ベノッツォの作品」と記しています。

華麗な行列と同じくらい惹き込まれるのが背景に描かれる風景。山や城、木々が丁寧に描かれ鳥、犬、牛、兎、駱駝、鹿、チーターも登場します。

この壁画は聖書の定番テーマを扱った宗教画でありながら、日本の洛中洛外図のような風俗画の楽しさも感じさせてくれるのです。

この名画があるのが「メディチ・リッカルディ宮殿」。

この宮殿は、コジモ・デ・メディチが建築家ミケロッツォに発注し、1444年から1482年の間に建築されました。

それ以来トスカーナ大公になるコジモ1世の時代までメディチ家の住居として利用され、新しく建てたピッティ宮殿に移り住んだ後、1659年にリッカルディ家へ売り渡されたために、現在では両家の名をとってこう呼ばれています。

現在は大部分がフィレンツェ県庁として使用されており、美術的価値の高い部分が観光施設として公開されています。

ヴェッキオ宮殿が市庁舎と観光施設とで住み分けているのと似ていますが市役所と県庁が宮殿内にあるのはフィレンツェならでは。

メディチ・リッカルディ宮殿は堂々たる建物でありながら,質素な趣も湛えていて,王侯貴族ではない一商人であるメディチ家が実権を握っていたフィレンツェ共和国時代の特色が出ているのかも知れません。

入口を入ると直ぐにゴッツォリの描いた壁画を説明してくれる個人用画面があり、15分程閲覧して理解した後、中庭にある建物へ入りました。

「東方三博士の旅」のある礼拝堂以外にも、ルカ・ジョルダーノが天井画を描いた部屋や、フィリッポ・リッピの、聖母というよりは可憐な町娘のようにも思える、「聖母子」があるホールがありました。

ベノッツォ・ゴッツォリはその後トスカーナの各地で仕事をした後、1469年からピサで24場面から成る旧約聖書の連作大作壁画を16年がかりで仕上げ、1497年、ピストイアで病没しています。