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美術館訪問記-50 レオポルト美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

添付1:レオポルト美術館

添付2:エゴン・シーレ作
「ヴァリ・ノイツェル」
1912年

添付3:エゴン・シーレ作
「家族」
1918年 オーストリア絵画館蔵

添付4:エゴン・シーレ作
「一つ屋根の家」

添付5:エゴン・シーレ作
「自画像」
1912年

添付6:グスタフ・クリムト作
「死と生」

添付7:グスタフ・クリムト作
「坐る少女」

一昨年の今頃は新型のインフルエンザの世界的大流行で大騒ぎをしていましたが、 今年は幸い下火のようです。

風邪の季節になるとスペイン風邪で死んだ夭折の天才、 エゴン・シーレが思い出されます。

彼は1910年、20歳の若さで、 絶望と若き情熱をほとばしらせた彼独自の絵を作り出します。

しかし、彼の絵に多く登場した、クリムトのモデルだった ヴァリ・ノイツェルと別れ、ブルジョワの娘 エディット・ハルムスと結婚した頃から、彼の絵は変わり始めます。 幸福と安定、希望を感じさせるものへと。

そのさなか1918年当時ヨーロッパに流行していたスペイン風邪で、 6ヶ月の身重であったエディットが死んでしまうのです。 必死で看病していたシーレも同じスペイン風邪で、3日後死亡。28歳の若さでした。

そのエゴン・シーレの世界最大のコレクションを誇るのが、 オーストリア、ウィーンにある「レオポルト美術館」。

2001年開館とこれまで述べた美術館の中では最も新しく、 地上5階、地下3階の鉄筋コンクリートのビルディングに収まっています。

この美術館の5000点以上というコレクションは ルドルフ・レオポルト博士(1925-2010)が生涯をかけて収集したものです。 ウィーン大学で医学を学んでいた彼は美術に興味を持つようになり、 1950年シ―レの作品に出くわすのです。

死後32年経ち、戦乱を経てシ―レはすっかり忘れ去られた存在になっていました。 レオポルトは、当初関心のあったレンブラント等の オールド・マスターズにはとても、手が出なかったのですが、 シ―レの作品は学生でも容易に買えるレベルだったのです。

レオポルトはシ―レに触れた感動を書き残しています。 「我々の世紀にも過去の巨匠達と同じくらい素晴らしい芸術家が存在したのだ。 彼の作品は現代人の心に訴えかける内容を秘めている。」

集められるだけのシ―レ作品を集めた後、彼は積極的にシ―レの美術的価値を 喧伝するため、1955年のアムステルダムを始めとして、ロンドンやウィーン、 ニューヨーク等で展覧会を開催したり、「エゴン・シーレ」という 228点もの挿絵入りの本を出版したりします。 こうしてシ―レの世間での評価は徐々に高まっていったのです。

レオポルト博士の熱意がなければ、シ―レは今でも埋もれたままの存在だった かもしれません。ゴッホの弟の妻のヨハンナ・ファン・ゴッホの 個展開催や、ゴッホの膨大な手紙のやり取りの出版等の献身的な努力がなければ、 今でもゴッホの名を誰も知らずにいたかもしれないように。

レオポルト美術館にはシーレの油彩画44点、水彩画やグワッシュが180点もあり、 1階の大広間の周囲の壁を彼の主要作品がズラリと取り巻く様は 圧巻としか言いようがありません。

彼特有の、デフォルメされ、内面の苦悩、やり場のない怒り、 絶望を滲ませた、人物画が多いのは勿論ですが、 しみじみとした詩情を湛えた風景画にも心惹かれます。

彼の自画像は何故か、ジェームス・ディーンが「エデンの東」で見せた、 すねたような、反抗的な若者のやるせない表情を思い起こさせるのです。

ここの5階にはグスタフ・クリムトの11作も集中展示されています。 画面の左側に骸骨、右側に絡みつく8人の裸体を配した181cm x 201cmの大作、 「死と生」が強いインパクトで迫ってきます。

それと大きさと描き方で正反対にあるのが「坐る少女」、14cmx10cmの小品です。 見慣れたクリムトとはまるで違う古典的手法で描かれていますが、 不思議と心に残る作品です。1894年作。

クリムトはシーレの師でもあり、友人でもあった訳ですが、奇しくもシーレと同じ 1918年に同じスペイン風邪がもとで死亡しています。

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早いもので今回が2012年最後となりました。
当訪問記につき、時に応じて心温まるお言葉を頂き、ありがとうございました。
 皆様、よいお年をお迎え下さい。


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