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美術館訪問記 – 489 ヨーク美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ヨーク美術館

添付2:ウイリアム・エッティ作
「森の花々」

添付3:ウイリアム・エッティ作
「インディアンの少女」

添付4:アルバート・ムーア作
「マリーゴールド」

添付5:アルバート・ムーア作
「装飾された衣装ダンス」

添付6:アラン・ラムゼイ作
「ジーン・アバークロンビーの肖像」

添付7:パルミジャニーノ作
「本を読む男」

添付8:ヨークの街並み

カースル・ハワードとベニングボロー・ホールのあるヨーク市は、紀元71年、古代ローマ帝国によって建設された古都で、人口約21万人になった現在も、旧市街は大部分が石造りの城壁で囲まれていますが、その城壁の内側に「ヨーク美術館」があります。

歴史ある街の美術館らしくイタリアの古典からフランドル絵画、フランス印象派、イギリス絵画を網羅していますが、目についたのはウイリアム・エッティ。

彼の油彩画を73点も所蔵しているとか。それもその筈、エッティはヨークで生まれヨークで没した生粋のヨークの画家。

彼は1787年に生を受け、幼少から画才を発揮し、画家であった叔父から手ほどきを受けた後、1807年からロンドンの王立美術院で学び、トーマス・ローレンスに1年間師事したりして研鑽を積んだ後、1816年にはフランス、スイスを経てイタリアを旅しています。帰国後はヨークに引退するまでロンドンで暮らします。

エッティは英国で最初に裸婦画に取り憑かれた男とも言われます。

元々イギリスは基本的にプロテスタントの国で、道徳的な意識も要素として加わり、性に奔放なギリシャ神話なども毛嫌いされて来ており、それまでは裸婦画の発展する余地がなかったのでしょう。

エッティの修業時代にはイギリスにはまだ美術館もほとんどなく、フランス、イタリアで初めて多くのヌード画に接した彼は、歴史や文学作品を踏まえた裸婦像を大量に生産し、抑圧されて来た自然な要望に応えたのでした。エッティの作品は英語圏の美術館でよく見かけます。

尤も本人は至ってシャイな性格で、生涯結婚もせず、浮いた噂もなく、14歳年下の姪ベッツィー・エッティに生活の面倒を見てもらいながら生涯を過ごしています。ベッツィーとの間にも疑わしき関係は一切なかったようです。1849年没。

ヨーク生まれの画家と言えば、もう一人、アルバート・ムーアがいます。

彼は1841年、肖像画家のウイリアム・ムーアの第13男として生まれ、父の手ほどきで画才を伸ばし12歳前に科学芸術省からメダルを授与されています。

1857年にはロンドンの王立美術院に作品が展示され、翌年入学を許されます。しかし、独立心が強い彼は数ヶ月で退学してしまい、モリス商会で壁紙やステンドグラスなどのデザインをしたり、大英博物館で古代彫刻の研究をしたりしました。

そのような経験を経て、しだいに装飾的な美を追求し、古代彫刻のように襞のある衣装を身に着けた人物が装飾的な背景の中で佇む「雰囲気の美」とも言われる、唯美主義的な絵画になっていきます。

唯美主義とは芸術のための芸術を目指し、主題に捉われず、美だけを追求するものです。彼はイギリスの唯美主義を代表する存在になるのですが、1893年、52歳の若さで病没してしまいます。

アラン・ラムゼイの目の覚めるような出色の出来の作品もありました。モデルの個性と輝きを見事に捉えており、着ているブルーの服とレースのショールの表現も素晴しい。

アラン・ラムゼイ(1713-1784)はスコットランド、エディンバラ出身で、20歳で絵画の勉強にロンドンに出て3年を過ごした後、ローマ、ナポリで更に3年間腕を磨き、25歳でエディンバラに戻り肖像画家として活躍しました。

彼は卓越した絵画技術に加え、詩人で作家の父親譲りの教養と海外生活での見聞に裏打ちされた、洗練された人当たりの良さで上流社会で人気を博し、1761年にはジョージ3世の首席宮廷画家に登用されます。

このため英国王室のコレクションにはラムゼイ作の肖像画が数多く入っていますし、英国のみならず、欧米の美術館でも彼の作品はよく目にします。

ヨークはエディンバラの方がロンドンよりやや近い。

イタリア以外では滅多にお目にかかれないパルミジャニーノの肖像画もありました。

美術館を出ると、250年の歳月をかけ1472年完成のイギリス最大のゴシック建築、ヨーク・ミンスターの白い2塔が澄み切った空に浮き上がって見えるのでした。