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美術館訪問記 –486 バートン美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:バートン美術館のあるリーズ大学ビルディング

添付2:バートン美術館入口

添付3:バートン美術館内部

添付4:ロジャー・フライ作
「フランス、プロヴァンスの町」

添付5:ロジャー・フライ作
「ニーナ・ハムネット」

添付8:リュシアン・ピサロ作
「ミルトン、イースト・ノイル」

添付9:ポール・セリュジエ作
「カフェ」

前回のリーズ美術館から800m程坂道を北に上った丘の上にあるのが「バートン美術館」。リーズ大学構内にある巨大なビルディングに収まっています。

57mの高さの時計台のあるこのビルは18世紀末から19世紀初にかけて欧米で流行した復興ギリシャ様式ですが、完成したのは1951年。落成式はこの年リーズ大学学長に就任したメアリー王女によって執り行われました。

幅広い階段を上がって6本の大円柱の並ぶ入口を入った左手の2, 3階が吹き抜けになった大広間の巨大な2円柱の背後にこのビルの極々一部を間借りしているようにバートン美術館がありました。3部屋のみの小ぢんまりとした佇まい。

美術館は1970年設立でリーズ大学の所有する美術品や希少本等を展示しています。

美術品は主に19世紀から20世紀にかけてのイギリス人画家、彫刻家の作品です。数ある中から前回同様、これまで採り上げて来なかった2人のイギリス人画家について書きましょう。

先ずはイギリスの美術界を一新させたロジャー・フライ。彼は1866年ロンドンの裕福な家の生まれで、ケンブリッジ大学で自然科学を学び、イタリア、パリ旅行後画家への道を志します。

ニューヨークのメトロポリタン美術館で短期間学芸員を務めた後、帰国し、作家、美術評論家、画家として幅広い活動を開始します。

1906年彼は世界で初めて「ポスト印象派」という用語を創出して同派を紹介。セザンヌやゴーギャンを称揚し、1910年と1912年にはロンドンでポスト印象派展を開催し、イギリスの美術界に大きな刺激を与えると同時に彼の美術評論家・画家としての地位を不動のものにするのです。

彼は女流画家ヴァネッサ・ベルとその夫やベルの妹で20世紀モダニズム文学の主要な作家の一人、ヴァージニア・ウルフと生涯親しく交際します。

ヴァージニア・ウルフはフライの死後「ロジャー・フライ伝」を出版しますが、その中で「我々全員を束にしてもロジャーの知識と経験には太刀打ちできなかった」と書いています。

ロジャー・フライは様々なスタイルを試みながら実験的な絵も描いていますが、どれも軽妙で知的で抵抗感なく受け入れられるものが多い。彼の作品はイギリスの美術館ではよく見かけます。

添付のニーナ・ハムネットはイギリス人美術家で作家。ロンドンとパリの美術学校で学び、パリ、モンパルナスでモディリアーニ、ジャン・コクトー、ピカソなどと交際し自由奔放な生き方でピカソは彼女をボヘミアンの王と呼んだ。ロンドンに戻った後、一時ロジャー・フライの愛人だった。

次いでマティスの下で学び、野獣派の影響の強いマシュー・スミス。

リーズに近いハリファクスで1879年に鋼線製造業の家に生まれ、家業を手伝った後21歳でマンチェスター美術学校に入り、ロンドンの美術学校も経験後、1908年にはフランスのポン=タヴァンへ行って、当地の画家仲間たちと交際。

1911年にはパリに出てマティスの下で学び、野獣派の仲間たちから強い影響を受けます。1914年第一次大戦勃発で軍隊に入り、負傷します。

大戦終了後はパリ、ロンドンを行き来しながら過ごし、1940年からロンドンに定住します。1954年にはナイトに叙され、1959年没。

マシュー・スミスは後年、マティスも好きだった赤色を好んで使い、原色を多用した緊張感のある小粋な絵を描きました。彼の作品は英語圏の美術館で見かけますが、不思議とフランスでは観た記憶がありません。

添付のエクスはベルギーとの国境沿いにあるフランスの田舎。

他にもイギリス人画家たちの作品が散見されましたが、フランス人でピサロの息子ながら27歳からはイギリスに永住しついには帰化したリュシアン・ピサロの父親譲りの風景画と、ここでは例外的なフランス人画家で、ポン=タヴァンでマシュー・スミスとも親交のあったポール・セリュジエの静物画を添付しておきましょう。

添付の「ミルトン、イースト・ノイル」はロンドンの西150㎞程にある田舎の村。



(添付6:マシュー・スミス作「エクスの風景」 および 添付7:マシュー・スミス作「藤色のシミーズを着た裸婦」は著作権上の理由により割愛しました。
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