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美術館訪問記 – 483 ダービー博物館・美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ダービー博物館・美術館外観

添付2:ダービー博物館・美術館内部

添付3:ジョセフ・ライト作
「自画像」
1780年頃 イェール英国芸術センター蔵

添付4:ジョセフ・ライト作
「サラ・カーヴァー母娘の肖像」

添付5:ジョセフ・ライト作
「太陽系儀の講義」

添付6:ジョセフ・ライト作
「賢者の石を探す錬金術師」

添付7:ジョセフ・ライト作
「エラズマス・ダーウィン」

添付8:ジョセフ・ライト作
「ポシッリポの浜辺からのヴェスヴィオ火山遠望」

添付9:ジョセフ・ライト作
「洞窟越しにみる月光に照らされた橋」

添付10:ジョセフ・ライト作
「インディアンの未亡人」

ダービーには「ダービー博物館・美術館」があるのでついでにカバーしましょう。

ダービー市の中心、ダービー大聖堂から100m余りの所にあり、 2011年の改築で近代的なビルディングに収まっていますが、設立は1879年。 1882年には美術館が併設されました。

博物館にはダービー周辺地域産出の磁器や考古学・博物学・地質学に関わる物や 軍事用品などが展示されています。

美術館には郷土が生んだイギリスを代表する画家の一人、 ジョセフ・ライトの作品が所狭しと並べられています。

この美術館はライトのスケッチを300点以上、油彩画を34点、文書類を何点か 所有しているといいます。勿論世界最大のコレクション。

ジョセフ・ライトは世界中の美術館でよく見かける画家ですが、 ジョセフ・ライト・オブ・ダービーとして展示されています。

彼は1734年、ダービーの生まれで、版画を模写しながら独学で絵を学び、 17歳時に画家を志してロンドンに出、ジョシュア・レイノルズの師でもあった トーマス・ハドソンの下で2年間肖像画家として修行を積んだ後、 ダービーへ戻り、肖像画家として暮らし始めます。

1760年代に、暗い室内で蝋燭に照らされた人物というモチーフを描き始めます。 その特徴的な明暗法を用いつつ、1760年代後半には彼の代表作ともなった 「太陽系儀の講義」を制作し、これら科学技術を主題とした作品によって、 ロンドンにおけるライトの名声は確立されるのです。

「太陽系儀の講義」は太陽周囲の惑星運行を実演する初期の機械装置を示しており、 この絵を前にして、この美術館の中央に太陽系儀の実物が展示されていました。

「賢者の石を探す錬金術師」という絵は、ドイツの錬金術師ヘニッヒ・ブラントが 1669年に燐を発見する様子を描いています。大量の尿を煮詰めているフラスコで、 尿中に豊富に含まれる燐が空中で自然発火し、勢いよく光を発しています。

これらの絵画は、西洋社会における宗教の力を漸減して行くことになる、 科学的研究のハイライトを人々の前に具現してみせたのです。

ライトは当時黎明期であった科学と産業の姿を絵画に留め、 産業革命の精神を初めて表現した画家としても有名です。

ライトが科学や産業をモチーフとして描いたのは、彼の最大のパトロンが 磁器を工業化したウェッジウッドと紡績を工業化したアークライトだった事と 進化論のチャールズ・ダーウィンの祖父で医師のエラズマス・ダーウィンが ライトの主治医で、エラズマスの主宰する科学者たちの会合にも同席していた事が 大きく関わっているでしょう。

ちなみに、エラズマスの息子とウェッジウッドの娘が結婚し、その結果、 チャールズ・ダーウィンが誕生するのです。

1773年、結婚したライトは妻を伴ってイタリアに赴き、イタリアの巨匠たちの 作品に触れるとともにローマにいたロムニー等の画家とも親交を結びます。

ナポリではヴェスヴィオ火山の噴火を目撃し、 彼はその光景を何作も描き残しています。

2年余りのイタリア滞在後帰国し、暫くバースに住んだ後、ダービーに戻り 1797年、エラズマス・ダーウィンに看取られながら生涯を終えます。

ライトは晩年にかけて風景画を多く描いています。 彼の風景画は写実性を追及しつつ、詩的な情感をたたえているものが多い。

「インディアンの未亡人」のように風景画と肖像画を合体したような 傑作もあります。彼は生涯アメリカに行ったことはないのですが。

ライトは生涯、ロンドン以外を拠点としながら成功した初めてのイギリス人画家で、 その経歴は当時としては異色のものでした。