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美術館訪問記 –482 ケドルストン・ホール

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ケドルストン・ホールの庭園

添付2:ケドルストン・ホール遠望

添付3:ケドルストン・ホール中央棟

添付4:中央棟大広間

添付5:サロン天井

添付6:ルカ・ジョルダーノ作
「アリアドネといるバッカスの勝利」

添付7:サルヴァトル・ローザ作
「哲学者」

添付8:アルベルト・カイプ作
「ライン渓谷風景」

添付9:レンバッハ作
「レディー・カーゾン」

前回触れたロバート・アダムは何回か名前を出しましたが、まだ説明していませんでした。

ロバート・アダムは1728年スコットランドで建築家の家に生まれ、父の死後、兄弟で建築事務所を引き継ぎ、貯めた資金で、1754年から4年間グランド・ツアーに出かけ、ローマでは古代遺跡をテーマにした画家で建築家のピラネージと知り合い、多くの影響を受けるのです。

1748年から発掘の始まっていたポンペイなどの古代遺跡の調査も行います。帰国後これらの遺跡研究の成果を発表して名声を得、建築家として有名になります。

彼は古典様式を取り入れつつも装飾や色彩などを巧みに使った独創的なデザインを次々と作り上げて、新古典様式のデザイナーとして大活躍します。建築だけにとどまらず、家具や暖炉、ドア、天井、カーペットなどの室内装飾までデザインし、アダム様式としてもてはやされるようになります。

アダムのデザインは陶芸家ウェッジウッドをはじめ、あらゆる芸術分野に影響を与えたといわれています

ロバート・アダムがグランド・ツアーから帰国後、最初に手掛け、彼の最高傑作とも言われるのが、ダービーにある「ケドルストン・ホール」。

ダービーはバーミンガムの55㎞程北東にある人口25万人足らずの工業都市です。競馬に冠せられた名前としても知られていますね。

ケドルストン・ホールは第4代ケドルストン準男爵の息子ナサニエル.カーゾン、後の初代スカーズデイル男爵、が1759年、父の持ち家だった家を再建したもので、1765年に完成しています。

ケドルストン・ホールは800エーカー、約100万坪という広大な庭園の中にあり、正面は北側向きで、いずれも3階建ての中央棟と東西のパビリオンから構成。

正方形の大きな中央棟から両側に婉曲して出た渡り廊下、と言っても2階建ての立派なものですが、の先に中央棟の半分ぐらいの長方形のパビリオンが付いた様式で、正面から見ると完全なシンメトリー構造。

ここは現在ナショナル・トラストの管理下に入っていますが、東のパビリオンには現在でもカーゾン家の人が住んでいます。

西のパビリオンにレストランや売店があり、それらを収納するために改造したのでしょう、2,3階の外壁が他とは異なる茶色になっています。

他の部分は淡い黄土色。2,3階が居住空間で1階はキッチンや物置、使用人たちの部屋などに充てられていたようです。

第478回で紹介した近くのチャッツワース・ハウスに負けないほどの館を創るため、アダムは天井の模様からドアのハンドルまで細心の注意を払ったと言われます。

中央棟の大広間は3階までぶち抜きの空間で大理石の円柱が何本も周囲を取り囲むギリシャ神殿風の造り。壁龕には白大理石の彫刻が並んでいます。いかにもギリシャ・ローマの遺跡から学んだアダムらしい造り。

天井や壁はウェッジウッドが多大な影響を受けたデザインで埋め尽くされています。

絵画も各部屋に多数飾られていますが、著名画家のものはそれほど多くありません。それでも10人程の名の知れた画家の作品があるので幾つか採り上げましょう。

先ずはスペイン生まれでイタリアで活躍したルカ・ジョルダーノの「アリアドネといるバッカスの勝利」。

神話によると、クレタの王女アリアドネは、ミノタウロスの犠牲としてクレタに連れて来られたアテナイの王子テセウスに恋をします。

アリアドネはテセウスの怪物退治を助け、ともにクレタを脱出しますが、テセウスはアリアドネを見捨て、ナクソス島に置き去りにしてしまうのです。

アリアドネは嘆きますがが、2頭の豹が牽く戦車に乗ったバッカスが現れて、彼女を妻とし、アリアドネの宝冠を取って空に投げるとそれが冠座になったとか。

次いで一目でそれと判る独特の鋭い目つきの人物像の多いイタリア人画家、サルヴァトル・ローザの「哲学者」。

第475回で紹介したオランダの画家アルベルト・カイプの「ライン渓谷風景」。

イギリスでは珍しいドイツ人画家レンバッハの、独特の作風で一目で彼の作と判る当家の女主人の肖像画もありました。