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美術館訪問記 - 465 州立美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:州立美術館正面

添付2:ラルジリエール作
「自画像」

添付3:シャルル・グレール作
「大洪水」

添付4:シャルル・グレール作
「サッフォーの寝支度」

添付5:州立美術館内

添付6:アンカー作
「苺を持ったマリエット」

添付7:ホドラー作
「ルイ・ブルジエ博士の肖像」

添付8:ヴァロットン作
「20歳の自画像」

前回のノートルダム大聖堂の直ぐ西に「州立美術館」があります。

リポンヌ広場に面して建つネオ・ルネサンス様式の荘厳な建物内に納まっています。

この宮殿は、公共施設に使用するようにと町に寄贈されたローザンヌ生まれのロシアの王家の子息ガブリエル・ドゥ・リュミーヌの遺産を基に、1892年から1904年にかけて建立されました。

当初はローザンヌ大学の校舎として使用されましたが、手狭になったため、1980年代に大学は転居し、改築して現在は州立美術館の他に州立貨幣博物館、歴史・考古学博物館、地学博物館、動物博物館や図書館が併設されています。

宮殿は3階建てで、地階が受付、目指す州立美術館は2階にありました。

オールド・マスターは少なく、ルカ・ジョルダーノの2作と、リゴー、ラルジリエールぐらいでしたが、近代絵画は充実していました。尤も作者はスイス人とフランス人に限られていますが。

中ではシャルル・グレール(1806-1874)の作品が8点もあったのには驚きました。彼の作品をこれだけ一度に観たのは初めてです。

シャルル・グレールはローザンヌ近郊のシュヴィイで生まれましたが、9歳ごろまでに両親とも亡くなり、リヨン在住の叔父に引き取られ産業学校に通う傍ら、地元画家の下で絵を学びました。

10代後半にパリに出て国立美術学校で学び、ルーヴル美術館で模写をしたりして、勉学の4年間を過ごした後、イタリアへ赴いています。

そこで知り合った友人と二人でギリシャ、トルコ、エジプトを巡り、インドへ向かった友人と別れ、一人でエジプト、シリアの旅を続け、病を得てかろうじてリヨンに戻った時には6年間が経っていました。

体調が回復すると、彼はパリにアトリエを構えます。1840年のサロンに初めて作品を出品し、入選。1843年、サロンに出品した作品が準優勝し、注目を浴びます。

ところが、グレールは人気絶頂に達した途端、画壇からは隠遁生活に入り、サロンにも出品せず、独自の理想の芸術を追求するようになります。

1843年に本人の依頼で当時人気のあったポール・ドラローシュの画塾を引き継ぎ、ジェロームやホィッスラー、トゥールムーシュ等の画家を指導しました。

グレールは授業料を徴収せず、無料でアトリエやモデルを使用させたので、貧乏画学生たちにも人気があり、モネ、ルノワール、シスレーやバジールなど後に印象派を構成する画家たちが知り合ったのもこの画塾を通じてでした。

グレールは古典主義の画家ながら、自分のスタイルを学生に押し付けることはなく、個々の塾生の個性を伸ばす教育を行ったのも人気の一つだったようです。

グレール自身は作品数が少なく、多くの著名画家たちを育てたにもかかわらず、スイスとフランス以外では一般にはあまり知られていません。

ここにある彼の作品はどれも彼の才能と確かな技術を証明しています。

添付の「大洪水」は少し説明が必要でしょうか。旧約聖書中のノアの箱船の話で、大洪水後、47日目に、船から放った鳩がオリーブの葉を銜えて戻って来たことから洪水が収まった事を知る一節です。

この場面は鳩と天使たちがそのオリーブを今まさに見つけた所で、夜明け前の青白い光の中、背景に岩山の上に箱舟が浮かび、前景の荒々しい大地と芽吹いたばかりの新芽、天使のピンクの衣等の対比が効果的です。

スイス人画家としては国民の人気を二分するアンカーとホドラーが仲良く4作ずつ、ローザンヌ生まれのヴァロットンは9作もあり、気を吐いていました。

フランス人画家の作品もジェリコー、コロー、クールベ、シャヴァンヌ、ドガ、セザンヌ、ルノワール、ボナール、ヴュイヤール、マティス、マルケ、ドニなど多士済々。