フランスの東隣、スイスも4年近く触れていませんでした。フランス国境に近く、周囲の90%以上をフランスに取り囲まれているジュネーヴを採り上げましょう。
ジュネーヴはスイス西部、アルプス山脈とジュラ山脈の間にあり、人口20万足らず、レマン湖の南西岸に位置する都市で、フランス語圏に属しています。
そのレマン湖から500m程の所にあるオプセルヴァトワール公園に面してあるのが「ジュネーヴ美術・歴史博物館」。
レンガ壁の重厚な地上3階、地下2階の建物で、建設は1903年から1910年にかけて。最上階は曇りガラス天井になっています。美術部門、考古学部門、工芸部門の3部門から形成されています。
美術部門の基になっているのは、1804年から市庁舎に展示されていた美術品で1826年ラート美術館の開館により、そちらに移されていたものを、再移動したもの。現在ラート美術館は美術・歴史博物館の分館として企画展専用に使用されています。
私は3階の美術部門へ直行しましたが、1階から3階への階段や踊り場の壁面は、ホドラーの壁画で埋め尽くされていました。
ホドラーは第192回で詳述したスイス第一の画家ですが、この美術館では展示作品数26を数え、最大の露出数。
絵画2600点、彫刻1400点を所蔵するというコレクションの中から目に留まったものを幾つか採り上げてみましょう。
色彩鮮やかなヴェロネーゼの「キリストの埋葬」。
パオロ・ヴェロネーゼはまだ説明していませんでした。彼は1528年、ヴェネツィアの西にあるヴェローナの生まれで、ヴェロネーゼとはヴェローナの人という意味の綽名です。
1553年ヴェネツィアに移住し、16世紀ヴェネツィア絵画の黄金時代をティントレットと共に支えた最後の巨匠と言えます。
彼の最大の特徴は、明度の高い華麗な色彩で、従来の宗教画や神話画に、ヴェネツィア市民の生活や趣味を大らかに具体的に取り入れた点で革新的でした。彼の明るい色彩は世俗的世界を華麗な世界に変貌させたのです。
そのよい例が「最後の晩餐」を主題として描かれた縦5m超、横13m足らずという非常に大きな絵画で、ヴェロネーゼの食事の光景を描いた作品群の中でも最高傑作とされる作品です。
厳粛な聖書のエピソードを贅沢な衣装を着たヴェネツィアの貴族階級の祝宴のように描いた上に、本来の聖書のエピソードとは無関係なドイツ軍人、小人の道化、様々な動物などを描いた事で不信心として宗教裁判にかけられます。
描き直しを命じられた彼は「我々画家は、詩人あるいは狂人と同じく、心に思ったことを自由に表現する権利を持っている」と言い放ち、単に作品の題名を「レヴィ家の饗宴」に変更するだけで切り抜けたのです。
ジーン・エティエン・リオタールという1702年ジュネーヴで生まれ、ジュネーヴで死んだ画家を初認識しました。肖像画、静物画とも達者なもので16点展示されていました。
彼はパステル画、細密画で名を馳せ“真実の画家”とも呼ばれました。パリ,ウィーン、ロンドン、ローマなど、当時のヨーロッパの主要都市をほとんど訪れ、生前は国際的に名の知られたアーティストでした。
コローの風景画、肖像画、ヌードなどが9作もあり、何れも質が高い。
「土手で横になる若い水浴者」は11年前来た時はコローの作とされており、購入したカタログ本もそうなっていますが、今回バルテルミ・メンの作と改められていました。
バルテルミ・メン(1815-1893)はジュネーヴで生まれジュネーヴで死んだ画家で、アングルに師事した後、イタリアで4年間ラファエロやティツィアーノを模写して勉強し、その後パリに戻りコローの友人になっています。
コローばりの絵も描けたわけです。35歳でジュネーヴ美術学校の教授になり、デッサンを42年間死ぬまで教え続けました。メンの風景画、肖像画4点が展示されていました。
ホドラーは彼の生徒で、度々「私は全てをバルテルミ・メンに負っている」と言っていました。
クールベの「ベンチの花」は彼が静物画も名手である事を示しています。
スイス、ローザンヌ生まれのヴァロットンの神話シリーズを含む13点があり、意欲作が多く集められていました。
1階の家具の部屋の一部にはホドラーの書斎が再現されており、この画家の使っていたアームチェアや家具、4点の油彩画が展示されていますから見逃さないように。