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美術館訪問記 - 453 マルセイユ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:マルセイユ美術館の入るロンシャン宮

添付2:マルセイユ美術館内

添付3:シモン・ヴーエ作
「聖母子」

添付4:グルーズ作
「自画像」

添付5:ニコラ・ミニャール作
「風景」

添付6:カルロ・ドルチ作
「聖ヨセフの持つ十字架に手を伸ばす幼児キリスト」

添付7:シニャック作
「黄金の岬、朝」

添付8:モンティセリ作
「女性や子供、犬のいる公園の情景」

添付9:モンティセリ作
「花瓶の花」
ファン・ゴッホ美術館蔵

続く15都市の一つがマルセイユ。地中海リオン湾を臨むフランス最大の港湾都市で、人口86万。パリに次ぐ人口で、ブーシュ=デュ=ローヌ県の県庁所在地です。

紀元前600年頃古代ギリシャ人が築いた植民市「マッシリア」にはじまるフランス最古の都市で、南仏における貿易・商業・工業の一大中心地です。

「マルセイユ美術館」は1801年のシャプタルの政令により翌年創設。現在は街の東側高台にある1869年建設のロンシャン宮内に納まっています。

19世紀、旱魃と人口増加による水不足の解消を目的としてデュランス川から市内へ運河を建設した際、その運河の終点に建てられた宮殿がこのロンシャン宮。

宮殿前に豊穣を象徴する女神の像が飾られた優雅な噴水があり、向かって左側の建物にはマルセイユ美術館が、右側には自然史博物館が入居中。

昔の宮殿だけあって天井は高く部屋は広々としていますが、展示室は比較的少なく、1階と2階に中央の大部屋と左右に1部屋ずつあるだけです。

フィリップ・ド・シャンパーニュやシモン・ヴーエ、ジャック=ルイ・ダヴィッド、ナティア、ヴィジェ=ルブランなどの17-8世紀のフランス画壇を代表する画家たちが並んでいます。

前々回で詳述したジャン=バティスト・グルーズの1770年代の自画像もありました。

ニコラ・ミニャール (1606–1668)の風景画は全くの無人で、当時のフランス絵画としては極めて珍しいものです。

作者のニコラ・ミニャールは、第321回で触れた画家ピエール・ミニャールの兄で、アヴィニヨン出身の娘と結婚してアヴィニヨンで暮らしたため、長期間ローマで生活したピエールが「ローマ人のミニャール」と呼ばれたのに対し、「アヴィニヨンのミニャール」とも呼ばれました。

1660年にはパリに出て、国王ルイ14世の宮廷画家となり、貴族社会の中で高い評価を受けて、王立アカデミーの教授に招かれ、後には学長にまでなっています。

イタリア絵画は数少ないものの、グエルチーノやカルロ・ドルチ、マラッタ、パニーニ、ドメニコ・ティエポロなどが展示されていました。

カルロ・ドルチ(1616-1686)はバロック期にフィレンツェで活躍した宗教画家で、本人も生涯敬虔なクリスチャンでした。ただ仕事ぶりが緻密で丁寧過ぎて遅筆。

従ってフレスコ画は苦手で、小品が多いのですが、ここにあった彼の作品は146 x 118cmと例外的に大きいので、少し驚きました。

題材も「聖ヨセフの持つ十字架に手を伸ばす幼児キリスト」という、この絵以外には観たことのない図像で大変珍しいものです。

19世紀以降の絵画もコローやクールベ、ドーミエ、ミレー、ドービニー、シャセリオー、シニャックなどが展示されています。

9点もあったアドルフ・モンティセリ (1824–1886)はマルセイユ生まれで、それまでの絵画の常識や概念を打ち破る個性的な表現で、フォーヴィスムや表現主義を初めとする近代絵画の先駆的存在ともなった画家です。

彼はマルセイユの市立美術学校で学んだ後、21歳でパリに出、国立美術学校へ入学、ルーヴル美術館へ足繁く通い、オールド・マスターの模写に励んでいます。特にドラクロワに心酔。

その後、バルビゾン派の画家、特にディアズ・ド・ラ・ペーニャと親交を持ち、カミーユ・コローからも影響を強く受けています。

パリのバティニョール通りにあったカフェ・ゲルボワの常連となり、印象派の先駆者でエドゥアール・マネやマネを慕って集まり、後に印象派と呼ばれる画家たちと知り合っています。

モンティセリの作品の最大の特徴は、鋭角的なタッチによる著しい厚塗りと色調の大胆さにあります。その画風は時代を突き抜けており、当時から彼の絵画に対しては批判が絶えませんでしたが、モンティセリ自身は「私は30年後のために描いているのだ」と語ったといいます。

1869年、15歳下のセザンヌと知り合い、1878年から1884年までの間、風景を共に描き、セザンヌの住んでいたエクス=アン=プロヴァンスに1か月間一緒に滞在したこともありました。

過度の飲酒や浪費などがたたって生活は貧しく、1885年、体調の悪化により下半身不随となり、翌1886年マルセイユで死去。

ゴッホは、1886年にパリに着いた時、モンティセリの絵を見て非常に感銘を受け、経済的には全てを依存していた弟のテオに購入を勧めたその絵「花瓶の花」は、現在アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館に収蔵されています。

後にゴッホは、「自分はモンティセリのやっていたことを続けているのだと思うことがある」と述懐しています。