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美術館訪問記 - 452 ドブレ博物館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ドブレ博物館

添付2:ドブレ博物館内部 写真:Creative Commons

添付3:作者不詳「聖会話」

添付4:ヒエロニムス・ボス作
「聖クリストフォロス」

添付5:ティツィアーノ作
「聖クリストフォロス」 ドゥカーレ宮殿蔵

添付6:ロマネスクの柱頭彫刻

添付7:14世紀のブロンズ彫刻

添付8:17世紀のヘルメット

添付9:アール・ヌーヴォーのガラス工芸品

ナント中心街西側には「ドブレ博物館」があります。

代々造船業を営んで来た家系を継いで、若くして家長となったトマ・ドブレ(1810-1895)は、家業には興味が持てず、28歳で引退し、引き継いだ巨万の富と残りの人生を自らの邸宅の建設と芸術作品の蒐集に費やした結果、1万点以上の収集品と邸宅を、県庁所在地であるナントの属するロワール=アトランティック県に遺贈してできた博物館です。

尤もドブレは当時の複数の著名建築家に依頼した邸宅の設計が気に入らず、自分好みのネオ・ロマネスク様式に自らデザインし直し、工事中もダメを出し続けたため、彼の生存中には邸宅は完成しなかったのですが。

高さ30mの塔は、ドブレの書斎や暗室のために作られましたが、使用されないまま、現在ではナント市を見渡せる格好の展望台となっています。

ドブレのコレクションは広範囲にわたり、貴重なインキュナブラから美麗写本、サイン、コイン、メダル、ドイツやオランダの版画などに加え、中世から19世紀までの絵画、彫刻、装飾品、家具、タペストリーを含んでいます。

インキュナブラとはラテン語でゆりかごを指し、西欧で作られた最初期の活字印刷物のことで、15世紀(グーテンベルク聖書以降、1500年まで)に活版印刷術を用いて印刷されたものをいいます。揺籃印刷本とも訳しています。

1899年、県は考古学博物館の所有品をドブレの館に移し、ドブレ博物館として開館。その後の寄贈や購入もあり、現在博物館の所蔵品は14万点にも上っています。

展示品は数多くありますが、私の主たる興味の絵画は少なく、目に留まったのは2点のみ。

1点は「聖会話」の3幅対画で1500年頃の作と推定され作者不詳。

このテーマは15,6世紀ドイツとフランドル地方で流行しており、中央パネルには幼子キリストを中心に聖母マリアと聖アン、その背後にマリアの父ヨアキムと夫のヨセフ、両翼で跪いているのが寄進者夫婦、その背後に立っているがそれぞれの守護聖人、聖ヘンリーと聖バーバラを配しています。

もう1点はヒエロニムス・ボスの「聖クリストフォロス」。

ボスはオランダのスヘルトーヘンボスの生まれで、生誕地の名にちなんでボスと称しました。

彼の作品は宗教関係に限られたために、ボスの死後吹き荒れた宗教改革による偶像破壊運動で被害に遭い、1629年、カトリック教区だったスヘルトーヘンボスは、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの軍門に降り、街は大破。多数あったとみられるボスの作品は消失してしまったのです。

従って現存するボスの作品は少なくフランスでは他にはルーヴルにしかありません。

クリストフォロス(英語読みはクリストファー)は3世紀のローマ帝国時代の伝説的な聖人で、元々はレプロブスという名前でした。

ある日、小さな男の子がレプロブスに「川を渡りたい」と言いました。巨人の彼はお安い御用とばかりに男の子を担ぎ、急な川を渡り始めます。しかし、軽かった男の子は進むにつれて段々と重くなり、レプロブスは倒れそうになってしまいます。

彼が丁寧にその名前を訪ねると、男の子はイエス・キリストと名乗りました。キリストは全世界を背負っていた為に重かったのです。レプロブスはキリストに仕えることを約束し、「キリストを背負う者」という意味のクリストフォロスという名前に改名したという事です。

3世紀に生きたクリストフォロスが1世紀に死んだキリストを担ぐというのは、おかしな話ですが、そこが伝説で、彼は交通安全の聖人として、多くのキリスト教徒に信仰されていますし、多数の画家もこの話を描いています。

館内にはナント市内の教会にあった愉快なロマネスクの柱頭彫刻や、微笑を誘う14世紀のブロンズ彫刻、怪物の顔のような17世紀のヘルメット、アール・ヌーヴォーのガラス工芸品など、興味をそそるものもありました。